伊藤伸二の吃音(どもり)相談室

「どもり」の語り部・伊藤伸二(日本吃音臨床研究会代表)が、吃音(どもり)について語ります。

2019年04月

糖尿病患者の幸せ

糖尿病患者の幸せ

 4月28日が近づいてきました。僕の75歳の誕生日です。後期高齢者の仲間入りかと思うと、不思議な気がします。勝手に、63歳で野垂れ死にすると思っていたので、ここまで生きるとは感慨深いものがあります。
 誕生日の月には、いろいろなところから、ハッピーバースデーの催し物の案内が届きます。
 第1弾として、以前もブログで紹介したこともある、枚方市のサンタバーバラというフランス料理店に行きました。オーナーシェフは、僕より一つ年下ですが、同級生のようです。何回か通ううちに、顔なじみになり、ことばを交わすようになりました。サービス担当のおつれあいだけでなく、シェフも、厨房から出てきて、いろいろな話をするようになりました。僕のブログも読んで下さっているようで、お店に行くのにちょっと間が空いたりすると、体を心配して下さいます。「インフルエンザだったんですね」というふうに。
サンタバーバラ2 僕は糖尿病なので、普段は野菜や大豆食品中心のかなりの「粗食」です。糖尿病はいつも食事に気をつけなくてはならないし、一日45分はスロージョギングをするなど、時に嫌になることもあります。旅行には、薬やサプリをかなり用意しなければならないので、不便です。しかし、決して不幸ではありません。たまにおいしい食事をするとき、本当に幸せな気持ちになります。
 すき焼きは伊賀の「金谷」、てんぷらは銀座の「近藤」、うなぎは名古屋の「蓬莱」などに行きます。かなりのグルメだと自認しています。
 普段が普通の人以上に粗食だから、たまに食べるおいしいものの「おいしさ」がよく分かります。「何でもおいしい」というような「舌」ではなく、違いのわかる「舌」にしてくれた、料理が上手だった母親に、今、とても感謝しています。
 「舌」がこえているので、よほどおいしいところでないと複数回行くことはありません。「血糖値を上げる」リスクを負ってまで食べるのですから。
 枚方のサンタバーバラは、いい食材が入ったとき案内してくださいます。そんなとき、喜んで行ける、数少ないお店です。僕も、まだまだがんばらなくてはならないことがあるので、元気でいたいですが、シェフには元気で料理を作り続けていただきたいと願っています。
サンタバーバラ1 糖尿病患者には、あまり血糖値をあげないフランス料理が一番いいと、「糖質制限食」の提唱者はすすめています。誕生日なので、いつもは遠慮するデザートもいただきました。
 せっかくのスペシャルランチなので、写真を撮るつもりでいたのですが、普段、その習慣がないので、出てきたらすぐ食べ始めてしまい、気がついたら、時、すでに遅し状態でした。最初の一皿や、野菜スープ、天使の海老やシタビラメ、ステーキなどのメインのお皿が紹介できず、残念です。きれいに盛り付けられたオードブルと、デザートだけは、かろうじて撮ることができました。
 元気が出て、またがんばろうという気になりました。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2019/4/24

吃音を生き抜くための 吃音Q&A 3

吃音を生き抜くための 吃音Q&A 


 前回のつづきです。
 午後7時頃から始まった大阪吃音教室の講座は、9時には終わります。あっという間に、2時間が過ぎました。
 吃音Q&A 4録画をしてくれていた、映像プロジェクトの井上詠治さんが、今、大変な編集作業をしてくれています。吃音の奥深さ、豊かさを実感した時間でした。
 では、最後の質問を紹介します。



6.どもる自分が好きではありません。どうしたら、好きになれますか。

 「どもる自分が」ということだと、どもらなかったら自分が好きなの?と返したくなってしまいます。
 どもる、どもらないにかかわらず、自分が自分を好きでない人という人はとても多いようです。どもる自分を好きになろうとして、そのことを目標にすることはありません。「どもる自分」という条件を外しましょう。
 人が「自分が好きだ」、少なくとも「嫌いじゃない」と思える時はどんなときでしょう。
 夢中になれることをしているとき、すばらしい自然の中にいるとき、おいしいものを食べたとき、人は幸せだなあと思います。好きなことに熱中することなどの、日常生活のささやかなことの積み重ねで、自分のことを嫌いにならないようにしたいものです。それにプラスして、仕事でも、趣味でも、近隣の人でも、同窓生でも、仲間がいることが大切だと思います。

 
7.どもれない体から、どもれる体になったと伊藤さんは言うけれど、どういうことですか。

 昨年末に金子書房から出版した「どもる子どもとの対話」の中に、どもれない体からどもれる体になったと書きました。この気づきのスタートは、滋賀県東近江市のことばの教室で、子どもたちと対話をしたときです。子どものひとりが僕に質問をしました。
 「伊藤さんは、どもることで困ったのはいつですか」と。
 子どもは小学生時代に音読や発表で困っただろうと想像したのでしょう。僕は、困ったことはなかったと答えました。そして、なぜだと思う?と問い返しました。子どもは、「どもらなかったから?」と考えながら答えました。どもらなかったから、困ることはなかった、そう考えるのは当然ですね。でも、違うのです。僕は、どもるのが嫌で、音読や発表をしなくなり、人前でしゃべりませんでした。どもる人間でありながら、しゃべらなかった、つまり、どもらなかったのです。だから、困ることはなかったのです。もちろん、悩んだり、悔しい思いはしていました。僕は、どもれない体だったのです。
 もうひとつ、伊藤亜紗さんが、「どもる体」という本を出版し、その出版記念のトークイベントと、東京大学・先端科学技術研究センターでのイベントで講演したとき、僕の東京正生学院での30日間の体験の意味づけが変わりました。どもりを治すために行った東京正生学院で、治すための方法を実践せずに、30日間、どもりながらしゃべりました。どもりづめだったのです。いっぱい話したことは、どもり漬けだったことで、どもっても話す喜び、心地よさを知りました。それでどもれる体になりりました。
 僕たちどもる人間には、どもる権利が、どもりながらちゃんと生きる権利があると思います。その権利を奪ってしまってはいけないと思います。どもらないように、どもらないようにとしていたら、しんどい。どもるときはどもるに任せる今は、楽です。自然に生きていくのがコツですね。


8.他人が私のどもりに気づかなければ、私はどもりではないのでしょうか。

 昔、「あのー、えーと」などをたくさん入れて、ゆっくりしゃべったら周りはどもりに気づかない。「自分は治っていないと思っても、周りが気づかなければ、万々歳で、その人はもはやどもりではない」と言った、「リズム効果法」を提唱した人がいました。でも、それはあり得ないことです。以前、吃音の定義の定説は、3つの条件が揃ったときだと言われていました。
  “麥暢性があること(どもっていること)
 ◆“語器官、神経系統に何の異常もないこと
  本人がどもると意識していること
 今は、発達性吃音、獲得性吃音と区別をしていますが、脳に異常があるのは吃音とは言いませんでした。失語症のなかで吃音と似た話し方があり「吃様症状」として吃音と明確に区別していたんです。本人が意識していることが条件なので、他人が気づかなくても、本人が意識していれば、吃音です。
 また、治ったかのように見えても、瘢痕は残ります。著名人も、今、治ったかのように思える人でも、吃音であること、どもる仲間であり続けたいという人がいます。スキャットマン・ジョンが有名です。僕たちは、どもるという意識は持ち続けたいし、どもる人だというアイデンティティは大切にしたいですね。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2019/4/23

本日、神戸で、吃音相談会

神戸での吃音相談会

 このブログで紹介したつもりになっていましたが、どうやらまだしていなかったようです。
 今日、午後1時から、こうべ市民福祉交流センターで、神戸スタタリングプロジェクト主催の吃音相談会があります。震災の年以外、ずっと開催していて、今回で、36回目と聞いています。

 神戸スタタリングプロジェクトの会長は、伊藤照良さんで、僕が大阪教育大学教員時代に、どもりのことを勉強したいと九州から出てきて、僕の研究室に入り、一緒に、全国巡回相談会に行った人です。長いつきあいになります。その伊藤さんが、毎年、僕を呼んでくれて、相談会を開いています。神戸の会員のみんなも集まり、いつも、和やかな雰囲気の中で、いい時間を過ごすことができます。
 初めて参加して下さった方の話を中心にすすめていきますが、古くからの神戸スタタリングプロジェクトのメンバーも参加して、その場を支えていてくれます。新年度を迎え、大阪吃音教室以外の場で話す、最初でもあります。

 ぎりぎりの紹介になってしまいましたが、お時間の都合のつく方、ぜひ、お越し下さい。当日参加も大歓迎です。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2019/4/21

吃音を生き抜くための 吃音Q&A 2

吃音を生き抜くための 吃音Q&A 2

 吃音Q&A 32019年4月12日の大阪吃音教室「吃音Q&A」のつづきです。
 質問を出してもらい、それに答えていきました。


4.「吃音者宣言」を最近、読んでいて、その中に、甘えということばが出てきたので、気になりました。「どもりさえ治ればすべてが解決するという自分自身への甘えから、私たちは人生の出発(たびだち)を送らせてきた」とは、どういうことですか。

 吃音者宣言は、僕が起草文を書いたのですが、この「甘え」ということばはどうしても入れたかったのです。僕の吃音の悩みの源泉には、甘えがあると思ったからです。21歳まで、僕は「どもりさえ治ったら自分の人生はバラ色になる」と思っていました。何でも、どもりのせいにしていたら、ある意味、楽なんです。自分の逃げている、責任を果たさない行動を正当化できるからです。たとえば、恋愛でもそうです。恋が始まっても、どうせ僕はどもりだからふられるに決まっていると予想する。すると、実際にふられたとき、ああ、やっぱりなと思い、あまり傷つきません。ふられたのは、どもりだからだと、どもりのせいにしてしまうのです。本当は僕の人間性や、人間として未熟な部分が原因だったかもしれないが、どもりを原因にしておけば自分自身は傷つかないのです。どもりを隠れ蓑にして、どもりさえなければ、幸せになれるのにと、責任転嫁していることになります。 これは僕の経験ですが、たくさんの人と話すうちに、僕だけの経験ではなく、僕の周りの吃音に悩んできた人は、大なり小なり多くの人が僕と同じように「どもりさえなければ」と考えているようでした。そこで、「甘え」を入れたのです。
 アドラー心理学でも何かを理由にして、口実にして人生の課題から逃げることを、劣等コンプレックスといいます。精神科医の土居健郎さんは、「日本人の甘えの構造」を書きましたが、日本人だけの特別のことではなかったのです。アドラーのいう劣等コンプレックスは、日本のことばで言うと、「自分への甘え」ということになります。

5.子どもがどもっているとき、とても苦しそうで見ていられない。何を言おうかということが分かっていたら、代わりに言ってもいいかなと思うのですが、やはり待つべきなのでしょうか。

 この質問は、吃音相談会など、保護者との集まりではよく出てきます。それは、いろいろな本に、「どもっているときは最後まで待ちましょう。そうしないと、どもっていても最後まで話せたという子どもの達成感を奪ってしまいます」などと書かれているからです。しかし、僕は、違うと思います。言おうとしている内容が分かっているのに、長く待たなければならないとなると、お互いにしんどいです。どもる子どもは、「どうしても自分で言いたいときは、待ってほしい。でも、どうでもいいことだったら、代わりに言ってくれた方がいい」と言います。だから、「こういうことが言いたかったのかな?」と言ってもいいと思います。そのとき、大事なことは、必ず、後で、「さっき、代わりに言ったけれど、どうだった? 嫌だった? 待った方がよかった?」と聞くことです。子どもが待って欲しかったと言えば、これからは、待てばいいです。同じ待つにしても、お互いに緊張感を持たずに待つことができるでしょう。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2019/4/20

吃音を生き抜くための、吃音Q&A 1

大阪吃音教室 吃音Q&A

4.12  吃音Q&A 1 4月12日の大阪吃音教室は、4回目の「どもりQ&A」の講座でした。約2時間で、8つの質問に答えましたが、その中の3つを紹介します。これらは、まだアップされていません。アップされる前に、メモを頼りに報告してくれたものを少し紹介します。



1.どもる人が、発表やプレゼンテーションの前にすることって何かありますか。

 準備をして、効果があることと効果がないことがあります。どうしたら、聞いている人に伝わるだろうか、ということに関しては一生懸命準備した方がいいですが、どもらないようにしようという準備は不可能といえます。家の中と人前は違うのだから、家の中でひとりで練習したり準備したりしても、役に立ちません。じゃ、どうするかというと、なりゆきに任せるしかないのです。どもったときはどもったときのこと、しょうがないと思うしかありません。
 発表やプレゼンテーションの本番では、不自然ではない程度に、自分なりに、できるだけゆっくり目に話すことを心がけるといいと思います。そして、どもる覚悟を決めることです。どもったとき、うろたえないで、さわやかに、平気でどもりましょう。ゆっくり話すことは急にはできません。普段から少しゆっくり目に話すことを心がけたらいいろでしょう。それが効果のある準備だといえます。


2.どもる人は面接や受験に不利ですか。
 どもる人本人や関係者は、どもることは面接に不利だと思っているようですが、僕はそうは思いません。不利になるとしたら、どもりを悪いもの、劣ったものと否定的に考え、どもる自分を嫌いだと思っているからだと思います。採用する側からすると、どもることそのものより、どもることによって起こってくる、様々な影響の方が気にかかります。たとえば、電話をしないといけないのにどもるのが嫌で電話しない、報告が必要な時に、報告しない、などです。そのような影響があるのは困るし、それが予想できると、採用に二の足を踏むだろうと思います。困難を抱えていても、それにきちんと向き合い、対処している人なら、問題はありません。
 世界一のセールスマンは、立て板に水のようにすらすらしゃべる人ではなく、とつとつとしているけれど、商品に対する知識は豊富で、誠実な人だといいます。ただ、現実には、どもるという理由で採用しない会社もあるのは確かなので、そういう所は、初めから自分に合わなかったところだと思うしかありません。どもっていてもその人の人柄、能力で採用してくれるところは必ずあります。そうでなければどもる人は就職していないことになってしまいます。でも、現実にはどもる人のほとんどが、様々な仕事に就いています。


3.最近、よく100万人が悩んでいると聞きますが、本当ですか。
 長い間、吃音の発生率は、1%といわれていました。今は、発生率は5%で有病率が1%と言われています。そこから、100万人のどもる人がいて、その全員が悩んでいるとされているようですが、そもそも100万人という数字も正確かどうか、分かりません。仮にどもる人が100万人いたとしても、悩んでいるのが100万人とはとても思えません。そんなに多いのなら、セルフヘルプグループやことばの教室にもっとたくさんの人や子どもが訪れるでしょうし、私の電話相談の電話ももっとたくさんかかってくるでしょう。でも、そんなことはありません。研修会などで、身近にどもる人がいますかと尋ねると、多くの人が「いる」と言います。どんな人かと聞くと、「同僚、社長、上司、同僚の教員や校長、近所の人」などで、ほとんどが、どもりながら、ちゃんと生きていると言います。どもる人は100万人いたとしても、その全てが悩んでいるとは言えません。私の実感としては3割程度だと思います。7割くらいの人は、どもりながら、自分なりに折り合いをつけて生きていると思います。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2019/4/18

吃音(どもり)についてさまざまな質問に答える動画、配信中 

吃音Q&A

 4月12日の大阪吃音教室は、「吃音Q&A」でした。このシリーズは、今回で4回目。
藤岡千恵さんが、僕に、吃音に関する質問をして、それに即興で答えるという形をとっています。それを、映像プロジェクトの井上詠治さんが、録画してくれ、You Tubeにアップしています。日本吃音臨床研究会のホームページの「動画」の項目から見ることができます。
 参加者の発言の機会は、ほかの講座と比べると多くないのですが、聴衆がこの場にいて下さるということは、僕にとってとても大きい意味を持っています。4.12 吃音Q&A 2
 単に質問に答えて話すということではなく、You Tubeで映像を見て下さる人を意識することもいい意味での緊張感をもたらし、僕の頭を活性化させてくれるのです。だから、質問に答えながら、これまで出会ったたくさんのどもる人やどもる子どもたちの顔が浮かび、また、その人たちのエピソードが浮かび、実際の体験を交えて、僕の考えを紹介することができます。文章で答えるのではなく、考えながら話していくことで、質問者と直接対話をしているということになり、そこに大きな意義を見出しています。やりとりの中で、思わぬ展開になることもあります。
 ぜひ、これまでにアップされたものを見てください。
 これまでどんな項目が出てきたか、タイトルだけ拾ってみました。

どもる人に武器があるとしたら、それはどんなものですか。
対人関係と吃音についてどう考えますか。
魅力的などもる人って、どんな人ですか。
どもる覚悟とはどういうことですか。
吃音が治らないことの意味をどう考えますか。
笑いとユーモアは吃音にとってどんな意味をもちますか。
言語訓練で治そうとするのが難行で、吃音と共に生きるは易行なんですか。
喋りやすくする工夫はありますか
発表や、プレゼンテーションで事前の練習の効果はありますか。
どもりは差別用語ですか。
第一声が出ないとき、どんな対策がありますか。
自己紹介が苦手です。自己紹介の時の工夫や対策があれば教えて下さい。
緊張とどうつきあったらいいですか。
どもることへの不安が大きいです。何か対処はありますか。
どもりと予期不安について教えて下さい。
欧米語でどもる人と、日本語でどもる人に違いはありますか。
どもる人にとって、子音と母音をどう発音すればいいですか。
吃音が発達障害の中に入ったと聞きました。吃音と発達障害について教えて下さい。
どもりを説明しようと思うのですが、どういうふうに説明すればいいですか
世界の吃音状況はどうなっていますか。
どもる人は、どんな仕事に就いていますか。
どもる人は人口の1パーセントと言われていますが、本当ですか。
どもりは障害ですか。
ひどくどもったり、あまりどもらなかったりします。どもりの波について教えて下さい。
どもりは治りますか。あるいは、改善しますか。
どもる原因について、分かっていることを教えて下さい。

 こんなにたくさんの質問に答えてきたのかと、改めてびっくりしました。
 それらを踏まえて、今回の講座になりました。
 初めは、こんな質問から入りました。
1.どもる人が発表やプレゼンテーションの前に準備することって何かありますか。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2019/4/17

弱さが結びつけた斉藤道雄さんと「報道の魂」

 斉藤道雄さんと出会うきっかけとなった、「弱さ」を社会にひらく

 ひとが集まる。いのち、弾ける。呼吸するお寺。應典院(おうてんいん)は、竹内敏晴さんの大阪定例レッスンや講演会など日本吃音臨床研究会の催しの場です。秋田光彦主幹が伊藤伸二にインタビューをした記事がTBSの斉藤道雄さんの目にとまり新番組「報道の魂」につながりました。その記事を紹介します。

  
「弱さ」を社会にひらく セルフヘルプとわたし
                 日本吃音臨床研究会 代表 伊藤伸二
 少子高齢化社会を迎え、「弱さ」に目を向ける生き方が求められるようになりました。「弱さ」に目を向けるといっても同じ苦しみや境遇を癒しあうだけの、閉じこもった関係であってはなりません。自閉せずに「弱さ」を力にしてつながりあい、受容する社会を創造するには、どうすればよいのでしょう? また「弱さ」はどのように社会に参加することができるのでしょう?
 「どもり」という「弱さ」を社会にひらき、同じ悩みを持つ人たちの支えとなる活動を40年間続けてこられた日本吃音臨床研究会の伊藤伸二さんにお話を伺いました。
 互いを支えあうセルフヘルプ
 ぼくは子どもの頃から、ずっとどもりで悩み、孤独に生きてきました。それが、大学の時に初めて同じようにどもりに悩んできた人たちと出会い、自分の話を聞いてくれる人が横にいて、そのぬくもりと安らぎを感じる体験をしました。これは何ともいえない喜びでした。一度その感覚を味わうと、また一人ぼっちになるのは耐えられません。 1965年、私は吃る人のセルフヘルプグループをつくりました。このグループでは同じように吃音に悩んできた人が集まり、支え合うだけではなく、自分の殻に閉じこもらないで、積極的に社会に出て行く活動をしました。当時は「セルフヘルプグループ」という言葉は日本に紹介されていませんでした。患者会や障害者団体はありましたが、その目的は生きる権利を主張したり、できれば「治す、改善」を目指しています。セルフヘルプというのは同じような体験をした者同士が支えあって、自分の人生を生きようということですから、治らないとか治せない、つまり簡単には解決しない問題をもっているというのが前提なのです。

 配慮という暴力
 ぼくは、どもりの苦しみを同じように体験した人と出会うことで、ほっとしたり、力がわいてきたりという経験をしてきました。だから、子どもの頃に「ひとりぼっちじゃない」という経験をしてほしいと、16年前に始めたのが吃る子どもたちのための、吃音親子サマーキャンプです。毎年8月に開催して、全国から140名を超える参加があります。
 そこで16年、吃る子の親に接していますが、最初のころは、「うちの子はかわいそう、なんとかして治してあげたい」「どもりを意識させずにそっとしておいたほうがよいと指導された」「治ることを期待してどもりについて話題にしない」という親がほとんどでした。それは親子を取り囲む社会全体、教師にも強くインプットされていて、子どもの欠点や弱さを指摘したらかわいそうだという、配慮に満ち満ちているからです。ぼくは「配慮の暴力」というのがあると思います。配慮が人を傷つけるということはいっぱいあると思うのです。 そんな大人のこれまでの意識を変えて欲しいと、本を書いたり、発言したりしてきていますが、なかなか浸透していきません。インターネットの時代で簡単に情報発信ができるために、「どもり治療の秘策」みたいな劣悪な情報が増え、状況は40年前よりさらに悪くなっています。親は治るというメッセージや情報にすがりつきたいわけですから、飛びつきます。
 「どもりが治る」とはどういうことか。ぼくも実際はっきりわかりません。一般的にいうと、空気を吸うように何の躊躇もなく話せるというのが治るということでしょう。また、吃りながらでも、吃音に影響されずに自信を持って生きるというのも治ることだといえるかもしれません。今、ぼくは何も悩んでないし、どんな不自由もないし、どもりで困ることは100パーセントありません。だから、「伊藤さんは、治っているんじゃないか」と言われたらそうだけれども、それを治るといってしまっていいのかどうか。吃りながら「俺は平気だよ」というほうがいい。だから治るという言葉はあえて使わないで、治らないけれども自分らしく生きることはできるんだよというメッセージを投げかけたい。治る、治らないの二元論的な世界から違う見方を提示したのが、セルフヘルプの活動といえるのかもしれません。

 弱さに向き合うこと
 だから何が何でも治そうということではなくて、どもりという欠点と言われるものや弱さは弱さのままでいいんだときちんと受け止められたら、社会でひとつの力になる。弱さの持っている強さを自覚できたら、弱さのままでも社会に出ていける。弱さはしなやかですから。これまでは「吃ってかわいそう」と弱さの中の弱さを押しつけられたりしました。弱かった人間が強くなると周りから叩かれるという矛盾もありました。そうならないために、きちんと自分の問題を見つめることは大切なのです。
 例えば「吃って恥ずかしい」と思ったのは、一体なぜか?と自問してみる。それは周りの人から、吃るあなたは、こんなことはしなくていいよと配慮されたり、弱い立場を押しつけられたりしてきたことと関係があるのかもしれない。烙印(スティグマ)を押されてそこに安住させられてきた。弱さを自分で演じてきたこともあるでしょうね。それを明らかにしていくというのはある意味でつらい仕事だけれども、それに向き合うということをしないといけない。一人では難しいからセルフヘルプグループがあるんです。
 しんどいけれど一緒に向き合おう。それをしないとただ「そうだね、苦しいね、よくわかるよ」という表面だけの共感に終わってしまう。それだと本当の苦しさは超えられない。

 失敗から学び、悩むことを恐れない
 今と違って、ぼくらの時代はがんばれば何かできるんじゃないかという希望がありました。今の子は悩んでいる感じはするけれども、悩み方がすごく下手になっている。悩み方のノウハウを教えるというのは変だけど、「お前の悩み方、変じゃないの」ということを言う大人がいてもいいんじゃないですかね。悩むチャンスを大人が奪っている。それも配慮ということなんでしょうね。失敗したらこの子はだめだと、失敗させないように何とかしないと、と言う。そうではなくて、むしろ失敗したほうがいい、悩んだほうがいいわけですよ。悩むことのなかに工夫があり、発見があり、気づきがあったりするのに、悩むことを恐れてしまう。これからの自分とか、なぜ生きているのか、そういう問いを発見するのも、若い人がもっと創造的に悩むことじゃないかと思っています。
 そのために、弱さに向き合うチャンスや場を、もっと大人が提供していかないといけないですね。向き合うということは苦しいけれども喜びもあり、発見もある。吃音親子サマーキャンプが成功しているのは、ぼくらが吃りながらでも楽しく過ごしている、その姿を子どもたちに見せているからです。大人がモデルとなるような生き方をし、人生の喜び、楽しさを提示することです。じかにふれあえて向き合う経験をさせる。そういう場を与えることが大人の役割じゃないかと思います。
「サリュ」 應典院寺町倶楽部のニュースレター NO.43 2004.10.5発行

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2019/4/13

べてるの家につながる、吃音 斉藤道雄さん

斉藤道雄さんからのメッセージ

 昨日の続きです。


メッセージ

  TBSテレビ報道局編集主幹  TBSテレビ解説委員 斉藤道雄(2005年当時)

 サマーキャンプでは、そうした物語が無数のさざめきのように、ときに深い沈黙をはさみながら語りあわれていた。そうしたことばと沈黙のはざまで、参加者はみなそれぞれに考えていたことだろう。吃音とはなにか、吃音を生きるとはどういうことか、なぜそれを生きなければいけないのか、それはなぜ自分の課題なのかと。しかしそうした困難な課題に判で押したような答がみつかるはずもない。いやどれほど考えても、そもそも答はないのかもしれない。答がないところでなおかつ考えなければならないとき、人はほんとうに考えているのかもしれない。
 取材者としての僕は、そのまわりをうろうろしているだけだった。ただはっきり感じることができたのは、そこで語り、語られる人びとの集まりのなかに、たしかな場がつくられ、その場をとおしてさまざまなつながりが生みだされているということだった。それはおそらく、絆とよぶことのできるつながりなのだろう。その絆が、吃音をめぐる苦労と悩みから生みだされるものであるなら、そしてまた生きづらさをともにするところから生み出されるものであるなら、僕はそうした絆をすでにそれまでにも目にしていたと思う。それも一度ならず。すでに見たことがある、その場にいたことがあるという、なじみ深さをともなった記憶は、キャンプにいるあいだ、いや最初に伊藤さんのことばに出会ったときから、僕にまとわりついていたものだと思う。
 それはもう20年も前、先天性四肢障害児との出会いにさかのぼる記憶でもある。その後のろう者とよばれる人びととの出会いと、そしてまた精神障害をもつ人びととの出会いにくり返し呼び覚まされた記憶なのだ。その核心にあるのは、自分ではどうすることもできない生きづらさを抱え、苦労し、悩みながらその経験を仲間と分かちあってきた人びとの姿なのである。彼らがみなそれぞれにいうのは、「そのままでいい」ということであり、「治さなくていい」ということであり、「どう治すかではない、どう生きるかなのだ」ということなのである。
 たとえばそれは、北海道浦河町の「べてるの家」とよばれる精神障害者グループの生き方であった。
 彼らとかかわってきた精神科ソーシャルワーカーの向谷地生良さんは、精神病の当事者に、はじめから「そのままでいい」といいつづけてきた。精神病はかんたんに治る病気ではないし、かんたんに治らないものを治せといわれつづけることは、その人の人生をひどく貧しいものにしてしまう。そうではない、病気でもいい、そのままで生きてみようと向谷地さんは提案したのである。そのことばで、どれほど多くの当事者が救われたことだろうか。彼らの多くは、病気は治らなくても生きることの意味を探し求めるようになり、妄想や幻覚は消えないのにむしろそれを楽しもうとさえしている。
 おまけにそこには、川村敏明という奇妙な精神科医がいて、「治さない医者」を標榜し胸を張っている。医者が治そう治そうと必死になったら、患者は服薬と闘病生活を管理されるだけの存在になってしまう。それがほんとうに生きるということだろうか。川村先生はそういいながら、患者を診察室から仲間の輪のなかにもどすのである。もどされた患者は病気の治し方ではなく生き方を考え、お互いに「勝手に治すな、その病気」などと唱和している。
 そこには、「この生きづらさ」をどうすればいいのかと、深く考える人びとがいる。その生きづらさは、それぞれが自ら引き受けるしかないものであり、だれもその生きづらさを代わって生きることはできないという、諦念というよりは覚悟ともよぶべき思いが共有されている。ゆえに浦河では苦労をなくすのではなく、いい苦労をすることが求められ、悩みをなくすのではなく、悩みを深めることが奨励される。みんながぶつかりあい、困難な人間関係を生きながら、しっかり苦労しよう、悩んでみようと声をかけあいながら、すべての場面で笑いとユーモアの精神を忘れない。彼らの生き方そのものが、ひとつのメッセージとなっている。
 そういう人びとを取材していると、さまざまなことが見えてくる。
 そのひとつが、当事者の力というものだ。
 「べてるの家」は、いまや全国ブランドといわれるほど有名になったが、見学者はそれがソーシャルワーカーや精神科医のつくりだしたものと勘ちがいしてしまうことがある。しかし浦河で真に状況を切りひらき、暮らしを築いてきたのは精神障害の当事者たちであった。生きづらさを抱え、苦労と悩みを重ねてきた彼らが仲間をつくり、場をつくり、自らの経験をことばとして物語にしてきたのである。
 まったくおなじことが、吃音親子サマーキャンプについてもいえるだろう。
 伊藤さんをはじめとするスタッフは、もう15年あまりこのキャンプにかかわっているという。そこでどれほどたくさんの子どもや親が救われたことだろう。けれどもしこのキャンプが、吃音の子どもたちを守り、助けることだけを考えていたのであれば、これほど豊かな場をつくりだすことはできなかったはずだ。その豊かさは、使命感に燃えるリーダーがつくりだしたものではなかったのだ。
 キャンプになんどか参加した中学生の宮崎聡美さんや松下詩織さんは、ともに吃音でもいい、治さなくてもいい、あるいは治したくないとまでいっている。中学生でそこまでいえるのはすごいことだし、そういえるまでにはいろいろな苦労や悩みがあったことだろう。そのいい方は、これからも揺れたり変わったりするかもしれない。しかしふたりがこのキャンプで変わったということは、まぎれもない事実なのだ。灰谷健次郎がいうように、変わるということは学んだことの証でもある。子どもたちはキャンプにきて、確実に生きることを学んでいる。そして彼らが、だれに教えられるのでもなく自ら学び、変わっていくということ、そのことが伊藤さんを支え、そしてまたキャンプにきたみんなを支え、動かす力になっている。
 あなたはひとりではない。あなたはそのままでいい。そしてあなたには力があるという、そのことばは、伊藤さんが子どもたちに送るメッセージであるとともに、子どもたちが伊藤さんに送るメッセージでもあるのだと思う。

 斉藤道雄 1947年生まれ、慶應大学卒業、TBS社会部・外信部記者、ワシントン支局長、「ニュース23」プロデューサー、「報道特集」ディレクターを経て、TBSテレビ報道局 編集主幹。
著書『原爆神話五十年』中公新書 1965年
  『もうひとつの手話』晶文社 1999年
  『悩む力 べてるの家の人々』みすず書房 2002年
             講談社ノンフィクション賞受賞

 −べてるのいのちは話し合いである。ぶつかりあい、みんなで悩み、苦労を重ねながら「ことば」を取り戻した人びとは、「そのままでいい」という彼らのメッセージを届けにきょうも町へ出かけている。−    『悩む力』より


 日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2019/04/11
 

斉藤道雄さんから寄せられたメッセージ

メッセージ


 「報道の魂」の放送から1ヶ月、日本吃音臨床研究会のニュースレターである「スタタリング・ナウ」NO.135で、僕たちは、番組の特集を組みました。そして、斉藤さんに、出会いのきっかけ、取材中に感じたこと、放送を終えての感想など、何でもいいからと原稿をお願いしました。
 いただいた「メッセージ」というタイトルの原稿は、想像どおり、いえ、想像以上に、力強く、心温まるものでした。読んだときには、本当に涙があふれました。理解して下さる方は、こんなに深く理解して下さるのだ。いつも誤解や、曲解で見当外れの批判を受けているので、何にも代えがたい応援になりました。
 その斉藤さんからのメッセージを2回に分けて紹介します。


                
メッセージ

  TBSテレビ報道局編集主幹  TBSテレビ解説委員 斉藤道雄(2005年当時)

 「ぼくは配慮の暴力というのがあると思います」
 小冊子のこのひとことに、僕は引きつけられた。
 配慮の暴力というのは、たとえば「子どもの欠点や弱さというものを指摘したらかわいそうだ」という親の思いこみからからはじまっている。あるいは、「治ることを期待してどもりについて話題にしない」という「大人の意識」のことだ。そうした意識が、子どもが本来もっているはずの力を、押さえつけているのではないか。
 この問題のとらえ方には、なじみがある。そう思いながら、先を読み進んだ。
 話は、吃音者の生き方をめぐるものだった。
 「治るとはどういうことか。ぼくもはっきりわかりません。…だから治るという言葉はあえて使わないで、治らないけれども自分らしく生きることはできるんだよというメッセージを投げかけたい」
 治らないけれども自分らしく生きる、これもまた、なじみのメッセージではないか。
 だれだろうと名前を見ると、伊藤伸二とあった。
 伊藤さんは、大阪の應典院というお寺が出している機関紙「サリュ」の2004年秋号に載ったインタビュー記事(「弱さ」を社会にひらく。セルフヘルプとわたし。)で、吃音について、吃音をめぐる「配慮の暴力」について、そして吃音を治すということ、治るということの意味について語っていた。それを読み終えて僕は思った。ああ、いつかこの人に会ってみたいものだと。会って、話を聞きたい。そしてたしかめてみたい。伊藤さんがいっているのは、僕がかつて受け取ったあのメッセージのことですよねと。「サリュ」の一文は、夜空に打ち上げられた一瞬の花火のようなものだったけれど、僕はたしかにそれを見たし、そこに伊藤さんの存在を感じることができたのですよと。
 いってみれば、そのことを伝えるために、僕は今回の取材に取りかかったのかもしれない。配慮の暴力ということばに出会ってからちょうど1年後、僕は東寝屋川駅にちかいマンションの自宅に伊藤さんを訪ねていた。そこで話を聞き、資料をもらい、この秋からはじまる新番組の企画で、伊藤さんの取材をしたいとお願いしたのだった。
 それがたまたま、年に一度の吃音親子サマーキャンプの時期と重なっていたのである。キャンプには伊藤さんたちの仲間と吃音の子どもたち、それにその親が、全部で140人も集まるという。好機を生かすべく、僕はさっそくカメラマンとともに、キャンプ地である滋賀県の荒神山まで出かけることにしたのだった。2泊3日の短い期間ではあったが、おかげでじつに密度の濃い取材ができたと思う。突然のテレビの闖入で参加者にはずいぶん迷惑をかけたことだろうが、それにもかかわらず快く取材に応じていただいたみなさんには、ここであらためてお礼を申し上げたい。
 もちろん、吃音などという問題にはかかわったことがなく、キャンプにもはじめていくわけだから、取材できることはかぎられていた。しかしそこで子どもたちが真剣に話しあい、劇の練習をするところを見ながら、そしてまたインタビューをくり返しながら、サマーキャンプがどのような場であり、その場をつくりだしているのがどのような人びとなのか、そしてそこでなにが語られ、なにが起きているのかを、多少なりともつかみとることができたと思う。
 ひとことでいうなら、それは長い物語をもつ人びとの集まりだった。
 吃音がもたらす苦労と悩み、そして人間関係のむずかしさや社会との緊張は、他人がなかなかうかがい知ることのできない生きづらさを、吃音者にもたらしている。その生きづらさは、時間を経てこころの奥底に滓(かす)のように沈殿し、重さをもち、それぞれの物語をつくる下地となる。キャンプの参加者はみな、そうした滓や重さや経験をことばにして、あるいは仲間の語ることばに共鳴する形で、自らの物語を紡ぎだしていくかのようであった。
 たとえばスタッフとして参加していた長尾政毅さんは、小学校2年生のころは吃音がひどくて、話がほとんど会話にならなかったという。
 「友だちと話してるときに、やっぱり通じなかった記憶、ものすごいある。これ話したい、だけど一部分も話せずに去っていく、って経験がいっぱいあった」
 どもりをまねされ、からかわれ、「負けじとしながら、だいぶこたえて」いた。ふつうに話せないのが「ほんとにいやでいやで」、でもそれを認めたくないから「逆に強くなろうと突っ張って」いた。それだけではない。吃音を「隠そうっていうことを無意識に」しつづけていたから、表面的にはものすごく明るいいい子を演じていなければならない。そういう無理を重ねながら小中高と進んではみたものの、高校2年のある日、ついに合唱部の顧問の先生にいわれてしまう。「君は、ものすごい自分を出さない、こころを閉ざす子やな」と。
 それはそうかもしれない。しかし、じゃあどうすればいいのか、長尾さんは途方にくれたことだろう。吃音がもたらす厚い壁は、自分で作り出したものかもしれないが、それは作らざるをえなかった防壁であり、そのなかでかろうじて自分を維持できるしくみだった。なぜそうしなければならないのか、どうすればそこから脱け出せるのか、それは周囲ではなく、だれよりも本人が自分に向けなければならない問いかけだったろう。その問いかけに、当時の長尾さんは答えることができなかった。いまそれを語れるようになったということは、果てしない堂々めぐりのあげく、いつしか壁を抜け出していたということだったのではないだろうか。
 ここまでこられたのは、おなじ仲間との出会いが大きかった。そこで長尾さんは目を開かれ、新しい世界に入っていくことができたからだ。いまでは自分が吃音に対してどういう心理状態にあるかを把握し、整理できるようになったというから、克服したとはいえないまでも、吃音との関係を以前にくらべてずいぶんちがったものにしているといえるだろう。しかしそれでもまだ、こころの底に鍵をかけているところがあるんですよと、テレビカメラの前で率直に語ってくれた。
 その長い話は、まだ先へとつづくのである。
 最近、長尾さんはアルバイトで水泳のインストラクターをはじめるようになった。子どもたちに泳ぎ方を教えながら、「名前よぶとき、だいぶ詰まる」ことがあって、危ないときもあったが、「ごまかしまくって」なんとかやってきた。それが最近、仕事が終わったところで先輩にいわれてしまったという。お前、がんばってるな、だけど「これからは、吃らずにやろうな」と。それを「さくっと」告げられた経験を、苦笑いしながら話す胸のうちには、かなわんなあという思いと、どうにかなるさという居直りとが交錯していたことだろう。
 吃音をめぐる長尾さんの物語は、いまなおつづいているのである。いや、吃音者はみな、終わることのない物語を刻みつづけている。それは一人ひとり異なっていて、みなおどろくほどよく似た部分をもっている。(つづく)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2019/4/10

吃音を肯定的に報道した、「報道の魂」

報道の魂

 当時TBSのディレクターだった、斉藤道雄さんたちが始められた新しい番組「報道の魂」の第一回で取り上げて下さった<吃音>。その番組を紹介する斉藤さんのメール内容と、番組の宣伝文章、それを取り上げた毎日新聞の夕刊を紹介します。
 最近の、浅くて軽い番組が多い中、テーマへの真剣さと深さと重さを感じる文章です。とてもありがたいと心から思いました。報道の魂

◇斉藤さんから周りの人たちへのメールから

 この秋から、ささやかに新番組をはじめることになりました。初回放送は以下のとおりです。
番組名 「報道の魂」  内容 「吃音者」
10月17日(月曜日)午前1時20分〜50分放送エリア 関東地区のみ(関東以外のみなさん、申し訳ありません)以下は、番宣コピーです。

 しゃべるという簡単なことが、簡単にはできない。それが、吃音者の悩みだ。しかしほんとうの悩みは、吃音を見る「まなざし」のなかにある。当事者を、時には鎖のように縛りつけているこのまなざしは、「治さなくてもいい」といった瞬間に瓦解する幻影かもしれない。どう治すかではない、どう生きるかだという吃音者、伊藤伸二さんを取材した。
 おそろしく地味な番組です。時間もよくありません。このメールをお送りしているほとんどのみなさんは、こんな時間に起きてはいらっしゃらないとよく知っています。でも、こんな時間だからこそ、まるで解放区(古い!)のように、視聴率を考えずに(!!)ドキュメントを作ることができました。ので、よろしければ録画してご覧ください。伊藤伸二さんという、すてきな吃音者と、その仲間たちに出会えます。    斉藤道雄
  

 ◇ブロードキャスト
   深夜の「報道の魂」=荻野祥三
 「泥つき大根の青臭さを感じさせる番組です!」。新番組の資料にそう書かれている。TBSで16日の深夜(17日午前1時20分)からスタートする「報道の魂」である。「魂」とは、また古風な。一体どんな中身なのか。
 1回目のテーマは「吃音(きつおん)者」。吃音とは「物を言う際に、声がなめらかに出なかったり、同じ音を繰り返したりする」などと辞書にある。番組は、日本吃音臨床研究会会長の伊藤伸二さんの独白で始まる。「国語の時間が怖くて、学校に行けなくなった……」。ナレーションが「伊藤さんは吃音者、つまり、どもりである」と続ける。
 「どもり」は、通常はテレビでは使わない言葉だ。新聞でも「気をつけたい言葉」とされ「言語障害者、吃音」と言い換える。ただし「差別をなくすための記述など、使わなければならない場合もある」とも「毎日新聞用語集」に書かれている。番組の中では、ある吃音者が「意味は同じなのに、どもりを吃音と言い換えることで、かえって差別されている感じがする」と語っている。
 伊藤さんは大阪を中心に、さまざまな活動をしている。その精神は「どもりを隠さず、自分を肯定して、明るく前向きに生きること」にある。吃音の子供たちを集めたサマーキャンプでは、子供たちが同じ仲間たちと話して、心が解き放たれていく様子がうかがえる。
 登場する全員が「顔出し」。モザイクをかけずに自分を語る。タイトル以外には、音楽も字幕もない。一カットが長く、じっくりと話を聞ける。画面をおおう青やピンクの字幕。けたたましい効果音。そして、長くても15秒ほどで次の人に代わるコメント。そんな「ニュース・情報番組」を見慣れた目には、粗削りな作りに見える。だから「泥つき大根」なのかと納得する。「報道の魂」は月1回の放送。それにしても「今なぜ?」。来週もこの話を続ける。
   毎日新聞 2005年10月15日 東京夕刊


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2019/4/9
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