伊藤伸二の吃音(どもり)相談室

「どもり」の語り部・伊藤伸二(日本吃音臨床研究会代表)が、吃音(どもり)について語ります。

2019年02月

国重浩一・伊藤伸二著『どもる子どもとの対話〜ナラティヴ・アプローチがひきだす物語る力』レビュー

『どもる子どもとの対話〜ナラティヴ・アプローチがひきだす物語る力』のうれしいレビューの続き

 昨日に引き続き、レビューを紹介します。どもる人、ことばの教室の担当者や言語聴覚士などどもる子どもの支援者の方のレビューが多い中、最後に紹介する方は、「どもり」とは何の関係もなく、ナラティヴ・アプローチの関係者のようです。国重浩一さんが吃音に関心をもって下さったことで、この本が完成し、吃音に縁のなかった人々にも読まれること、大変にうれしいです。吃音の持つ、豊かな世界に触れていただいたように思いました。

今の時代こそ、対話が必要
 2018年に文部科学省が出した新学習指導要領の各教科に対話について書かれています。その中の「特別支援学校学習指導要領解説自立活動編」の吃音に関する記述に、「吃音について学び、吃音をより客観的に捉えられるようにする」が挙げられています。吃音についての知識を学び、対話をすることを求められています。この本には、自然な子どもとの対話の実際が載っていました。吃音がある子だけでなく、どの子とも対話が大事であることがわかりました。今の時代こそ対話を大事にしていきたいと感じました。


ナラティヴで景色が変わる
 本書は吃音の当事者(子ども、大人)のエピソードに加え、どもる子どもの保護者、吃音に関わる専門家(教員、言語聴覚士)など、いろんな立場からどもりを通じてその人のナラティヴ(物語)が変わったエピソードが掲載されている。
 そこには「治すべきどもり」でも「改善すべきどもり」でもなく、「ともに生きるどもり」の姿がある。どもりが「治す対象」から「生きるテーマ」に変わる時、世界の見え方が変わる。
 過去を変えることは不可能だが、できごとを今この瞬間から、自分がどう受け止めるか、どう物語っていくかによって変わるものがたくさんある。
 吃音の現実や、世界の動きについても語られた貴重な本だと思う。


どもる子どもへの対等なかかわり方を教えてくれます!
 本書は、うまく話すことのできない子どもに対して、私たち大人がどうかかわっていくべきかを丁寧に解説した書です。著者は、対等なかかわり方を重視しており、その背景には、うまく話せない子ども自身が吃音をどのように思い、日々をどう過ごしているかということを重視する視点があります。非常に暖かい目で子どもたちを見つめる一冊です。


どもる大人の人たちに読んで欲しい本 豊富な事例が、支援職の人たちへの福音にも
 待望の書籍が刊行されました。
 この本は、伊藤伸二さん、国重浩一さん、吃音を生きる子どもに同行する教師・言語聴覚士の会の皆さんが、知恵と労力を集めて制作しました。この本には、どもる子どもを前にした支援者が、外在化をもたらす対話をどう紡ぐかの実例が、豊富に掲載されています。ことばの教室や言語聴覚士の現場で、どもる子どもたちを相手にしている支援職の人たちには、読了後直ちに実践のヒントとなることでしょう。
 言い換えればこの本には、感性豊かで反応が素直な子どもたちが、ナラティヴ・アプローチに接した際の実際の会話が、たくさん収録されています。ナラティヴ・アプローチ、ナラティヴ・セラピーに関心のある人達には、外在化がうまく働いた際に起こること――外在化が開始されるのと同時に、またはすぐに後追いするように、苦悩の軽減が始まること――が描かれているこの本から、さまざまな気づきを得ることが可能です。
 ナラティヴ・アプローチという、日本人には馴染みにくいところのある考え方、技法が、吃音問題という格好の題材を得て、幾分かでも理解しやすいものになっています。これは同時に、吃音問題という複雑怪奇な現象が、ナラティヴ・アプローチのフィルターを通すと、幾分かでも取り組みの容易なものになっている、ということでもあります。
 成人のどもる人達の多くが気づいているでしょうが、吃音は一瞬々々様相を異にする、変幻自在な現象です。一方、ナラティヴ・アプローチはこの本では、次のように描かれています。「ナラティヴ・アプローチでは、特定の決まり切った効果や効用を約束することはありません。ナラティヴ・アプローチを実践しようとする者は、人によって、異なった話を聞く準備が必要となります。人によって、異なったところにたどり着くのだという想定をして話をする必要があるということです」(国重浩一、本書P.119)揺るぎない方針のもと、支援者が変幻自在な対処を行うことが前提となっているナラティヴ・アプローチは、まさに吃音問題への対処に相応しいものなのです。
 成人のどもる人達は、この本を熟読すれば、吃音問題には万人に通用する対処法などないこと、「吃音とともに生きるのだ」という覚悟を決めた上で、自分個人の対処法を模索し、その場その場で臨機応変にサバイバルしていくほかないことを学べるはずです。ぜひ手に取って隅から隅まで味わって頂きたい、そんな本です。


 
ナラティブ・セラピー関係ということで、一応、買っていたのだが、「どもり」というテーマは、自分の関心からは遠い感じだったので、しばし積読。だったのだが、本が「ちょっと読んでみて」とさそっているような感じがあって、読み出したら、これがすごく感動した。
 まずは、「どもり」に対する周りの人からの評価からくる苦しさ、そして、「どもり」を治そうとする努力の大変さと不毛さ、そしてそこからくる無力感と苦しさ、さらに、かりに滑らかに話すことがかなりできるようになってもつねにどもらないように自分を監視しつづけることの苦しさに、自分のこれまでの「どもり」への無知を恥じつつ、共感した。
そして、「どもり」を受け入れ、ともに生きていくこと。さらには、どもりたいだけ、どもりながら、自分らしく自分を表現すること。
こういった話が、多くの「どもり」の人のストーリーとして語られていくことの驚き。そして、その多様性のおどろき。なんか、たくさんの勇気をもらった気がした。
 そして、こうしたストーリーを読んだところで、ナラティブ・セラピーの基本的な考えと基礎スキルがとてもわかりやすく解説される。
 今まで、なんか小難しいナラティブ・セラピーの本を読んで来て、そうした「基本」は、すでにわかっているつもりであったが、「どもり」に関する具体的なストーリーをたくさん読んだあとで、読む解説はほんと頭にすっと入ってくる。そして、ポイントがぐっと絞ってあるがゆえに、なにが大切なのかが、しみじみと伝わってくる。
 「どもり」にフォーカスされているのだが、まさにそれゆえに、「どもり」に限らず、だれもが自分自身のなかにもつ「悩み」とともに生きる勇気をあたえる一般性に達しているな〜。そして、ナラティブ・セラピーが実際にどのようにワークするのかが、リアルにわかる感じがあった。




日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2019/2/27

『どもる子どもとの対話〜ナラティヴ・アプローチがひきだす物語る力』のレビュー

『どもる子どもとの対話〜ナラティヴ・アプローチがひきだす物語る力』のうれしいレビュー

 金子書房から『どもる子どもとの対話〜ナラティヴ・アプローチがひきだす物語る力』が出版されたのは、昨年12月半ばでした。
 読んで下さった方のレビューがインターネット上のアマゾンなどで、いくつか目にとまりましたので、紹介します。ひとつ、強烈に批判しているものもありましたが、「吃音を治したい、治るはずだ」と考えている人には、「吃音と共に豊かに生きる」の主張は我慢できないものなのでしょう。感情的な批判ですが、ある明確な考え方を世に出したからには、強く反発する人がいるのは当然のことで、仕方のないことと受け止めています。
 吃音関係者だけでなく、ナラティヴ・アプローチ関係者も読んで下さっているようです。うれしいレビューがいくつもありましたので、肯定的なレビューを紹介します。

どもりながらサバイバル
 「これは洗脳だ」と酷評(というよりただの誹謗中傷)してらっしゃる方もいらっしゃいますが、読解力が絶望的にない方なのでしょう。勝手に誤読して、事実も捻じ曲げて批判してらっしゃいますし、レビューの日本語がひどいことも、この方の日本語能力を示していると思いました。
 第一、「吃音は治らない」と「洗脳」して、伊藤伸二さんに何の得があるというのでしょう(それでお金を稼いでいるわけでもなし)。ゆっくり話して切り抜けられるならゆっくり話せばよいし、どもらないように工夫できるのならすればよい(それと「治る」こととは違うでしょう)。だけど、ときにはどもって話す覚悟が必要なときもありましょう。
 その時その時で、柔軟にサバイバルしてゆけばよい。そして、子どもたちにはその力があるし、治療にエネルギーを注ぐよりも、サバイバルしていける力を養いたい。
 治そうと思って治るものではないものを治そうとし続ければ、不幸に陥るのは必然でしょう。どもって、ときには落ち込むこともありましょう。誤解されることもありましょう。だけど誤解されたなら、誤解を解くよう努めればいい。それもまたサバイバル。
 「治療モデル」ではなく「サバイバルモデル」。伊藤伸二さんの一貫した、現実的で柔軟な姿勢が伺えました。


最初に出会ってほしい本
 吃音・どもりに悩み始めたときに、どの本を最初に手に取るかで、その後の苦しみの大きさがたいへん異なってくることがある気がします。
 本書によって、吃音・どもりがあったとしても、「あなたらしく生きていっていいんだよ」というメッセージと共に受容される体験をしてほしいと思いました。そして、どもる子どもたちにかかわる大人も、「どもりの改善をしてあげられなくてもいいんだ、でも、ちゃんと子どもとかかわって欲しい」というメッセージと共に、今後の方向性を見出してほしいと思いました。
 どもることは、時によっては不便なものです。うまく言えないですし、話すタイミングも失うこともあります。でも、どもりが不便ということだけで、人は悩むのでも苦しむのでもありません。吃音状態が改善すれば、その苦しみや悩みが変わる可能性もありそうですが、ものごとはそんな簡単なことではないと言うことが、本書から見えてきます。
 「吃音・どもり」をマイノリティの問題として「読む」こともできます。本書は、ありとあらゆるマイノリティの問題にかかわっている人にも是非ともお勧めしたいです。


「強くなる」って、「弱さをしっかとハグすることなんだなあ」と感じる一冊
 結論は急がない方がいい。結論を急がないと、豊かな選択肢を自ら見つけ出すことができる。そして、結論は一つではない。そういうことを教えてくれる本だった。
 2章のどもる子どもと対話する先生たちの一言ひと言がすごくいい。答えを強いることのない質問が注意深く繰り出されている。極意を学びたい。続く3章は、ナラティヴ・アプローチの魅力を余すところなく理解可能にしてくれる。国重浩一氏の解説はとてもわかりやすい。5章、伊藤伸二氏のどもる子どもへの語りかけ、『どもる君に』。「あなたはあなたのままでいい」とは、どういうことかを具体的に伝える。
 「強くなる」って、「弱さをしっかとハグすることなんだなぁ」と感じる一冊でした。深いです。


子どもの成長のすごさ
 集団生活の中の子どものアィデンティティの成長に驚いた。先生との心の底からの会話も頼もしい。薬剤師の女性の吃音の変動も納得できる。どもってもどもらなくても一つの土俵をぐるぐるまわっているのだなと思った。土俵からはずれるのはどうしたらいいか。著者が開催されたワークショップ森田療法も一つの方向だとも思う。どもってもどもらなくとも吃音を相手にしないでそのものになって進んでいく。うつ病の場合は治療が必要だが。有名人でNHKファミリーヒストリーで丹波哲郎さんをしていたが吃音のため軍隊に入れなかったが戦後生きるために必死で働いていたら吃音が飛んでいって素晴らしい俳優さんになられた。白洲次郎さんは日本語より英語のほうがどもらなかったそうです。NHK仕事の流儀でアニメ監督の細田守さんは話さなくても済むアニメの仕事につかれたのにヒット作品が続出し世界にもノミネートされ、より話をしなければならなくなったそうです。最後に田中角栄首相のフメさんは角栄少年がからかわれて帰ってくると「言葉が不自由なのは、角栄の看板のひとつだよ」津本陽著 異形の将軍より 明治の女性は強かった。


生きやすくなるために
 ナラティヴ・アプローチは、「どもりがあるから」から「どもりがあっても」へと、当事者のストーリーを書き換えてくれる可能性を持っている。
 事例では、4章の「それぞれのナラティブが変わる」で、他からどう思われようが、自分の心、気持ちが変わっていけば生きていけること。その変わっていく様がここに示されている。自己再生の物語がある。ここで紹介されている事例が「どもる子」たちを導いてくれる。人は変われるのだということを。
 5章「どもる君へ」は伊藤さんからのメッセージだ。そこに示された、原因も分からない、有効な治療法もない爐匹發雖瓩鮖つ当事者がどうやって生きていくのか、生きていけるのかの指針が示されている。当事者やその関係者は一刻も早く、このメッセージに触れてほしい。


どもりとともに生きる生の声がつまった、宝物のような本
 どもりの当事者として全国のどもる大人、子どもと実際に対話を重ね、吃音に振り回されない自分の人生を歩んでいるたくさんの人に出会った著者だからこそ、文章に説得力があるのだろう。確かに治す努力の否定は書かれてあるが、治したいと思う当事者の気持ちまでは否定していない。どもりを受け入れるのは難しい。まずは自分がどもりだと認めることが、0の地点に立つ、すなわちどもりと向き合うことだと著者は書いている。そのために必要とされるのが、信頼できる人との対話である。
 本書には、その考え方のヒントとしてナラティヴ・アプローチの理論とともに、対話の実際がわかりやすく載っていることがおもしろい。どもる子どもとの対話、大人との対話、援助者との対話など、どこを見ても実に興味深い内容になっている。私がおすすめしたいのは、実際に消防士として働くどもる青年の話。さまざまな苦難に直面しながらも、自分の力を最大限発揮し、誠実に日々の職務にあたる彼の姿は、読んでいてとても清々しい気持ちにさせてくれる。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2019/2/26

吃音のネガティブな流れに抗う

大阪吃音教室の仲間と、来年度に向けて

 土曜日の午後から夜にかけて、日曜日の朝から昼まで、2日間にわたって、大阪スタタリングプロジェクトの来年度に向けての運営会議が行われました。参加者は、20人でした。
 最近の吃音の世界のネガティヴな情報があふれている状況に、吃音のネガティヴな面だけが強調されていくことに、危機感を覚えていた僕にとって、こんなに大勢の仲間と、来年度の活動について、笑い合いながら語り合えたことは、とても楽しい時間でした。
大阪運営会議 運営委員に新しく加わって下さった方がいます。その気持ちを、先日の大阪吃音教室の講座「エリクソンのライフサイクル論」での僕の話を受けた形で、話して下さいました。

 「定年退職し、さあ何をしようかというときに、吃音のことが浮かんだ。2年前に、治す方法をみつけたくて、大阪吃音教室に参加した。原因も分からず、治療法もないと聞き、それならばと気持ちを切り替えた。ほぼ毎回欠かさず参加し続け、講座で聞いた話をノートにメモをとったり、関連の本を読んだりした。そして、先週の大阪吃音教室の「エリクソンのライフサイクル論から吃音を考える」の講座の中で、エリクソンのいう、壮年期、老年期にさしかかり、世代性を考えた。自分の子どものことだけでなく、もう少し広い視野で大切なことを伝えていく役割が自分にはあるのではないかと思った。そんなふうに、他者貢献や世代性について考えていたところに、運営委員にならないかと声をかけてもらった。できることをやっていきたい」

 他者貢献や世代性について考えていたというその人に、このタイミングで声をかけて仲間に入っていただいたこと、偶然ですが、必然だったような気もします。
 
 運営会議は、プライベートなことや、担当したり印象に残った講座についてのふりかえりから始まり、世話人や機関紙「新生」の担当を決め、来年度のスケジュールを決めました。担当した講座についてのふりかえりの中で、「講座を担当することで勉強し、結局は自分にとってとてもためになった」とのふりかえりをたくさん聞きました。誰かの話を聞いて自分が理解するのと、自分が人前に立ってみんなに説明するのとではずいぶん違います。再度、本を読んだり、これまでの講座の内容を検索したり、みんなそれぞれに準備をしっかりして下さっています。セルフヘルプグループでの他者貢献は、自己肯定につながるということを改めて思いました。

 日本吃音臨床研究会のホームページに関しても、たくさんの方の意見を聞かせてもらいました。そして、その場で、入力をはじめ、お手伝いいただける方が手を挙げて下さいました。まず、僕が動かないといけないことは、自覚していますが、そのエネルギーは、充分いただきました。発信に向けて取り組んでいきたいと思います。
 このブログも、そのひとつです。どうぞ、お読みになった方は、お知り合いに紹介して下さい。よろしくお願いします。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2019/2/18

吃音の映像の制作者・井上さんの結婚祝賀会

井上詠治さんの結婚祝賀会

 僕たちの仲間である井上詠治さんが昨年結婚し、その祝賀会が2月10日、行われました。大阪スタタリングプロジェクトのレクレーション担当が企画してくれたものでした。
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 当日、30名ほどの人が集まり、賑やかで楽しく温かいひとときを過ごしました。
 井上さんとの出会いは、26年前にさかのぼります。そのとき、井上さんは、高校2年生でした。吃音親子サマーキャンプに参加した彼と初めて出会ったのです。サマーキャンプに何回か参加して、その後、ブランクはあったのですが、大阪スタタリングプロジェクトの仲間として加わるようになり、特に、ホームページの映像記録に関して大きな力を発揮してくれています。

 吃音に関するネガティヴな情報が多い中、なんとか僕たちの考えや取り組みを発信できないかと考えてくれて、吃音親子サマーキャンプや吃音講習会に、重い機械を持ってきて、撮影し、それを編集して、ホームページに掲載するということをしてくれています。研究会のホームページに載せている吃音の動画は、井上さんによるものです。文字だけではなく、映像の持つ力は大きいと、撮影機や録音機を自分で購入し、膨大な作業をしてくれて、大いに貢献してくれています。そのエネルギーの原動力はどこにあるのかと思うくらい、力を入れてくれています。僕たちの生きる姿を見せていくことの影響力を感じてくれているのでしょう。

 沖縄でのキャンプにも、第1回から参加し、自分を語っています。参加している子どもたちや保護者にとって、どもる先輩、メンターとしての井上さんのことばはしっかりと心に届いているものと思います。
 これだけ貢献してくれているのに、彼は、「自己肯定感が低い」と以前は自分でよく言いました。でも、結婚を通して、彼に変化が訪れているのを感じます。祝賀会の最後に、彼は、結婚は他者信頼を実感できる場だったと言いました。結婚式当日までは、二人で準備ができたが、当日は全て他者に任せた。助けてほしいとお願いすることが多かった。人に助けてもらうことの大切さを知ったというのです。そして、たくさんの人から、「おめでとう」と声をかけてもらい、関わりの大切さを実感したとのことでした。これで、きっと井上さんの自己肯定感もあがっていくのではと思います。

 高校2年生で参加した吃音親子サマーキャンプで、最初、井上さんは、「どもっているとき、周りの視線が気になる。じっとこちらを見られるのはつらい」と発言しました。3時間を超える話し合いの最後に、「俺も昔っからどもりで悩みまくって、もうなんで俺だけがどもるのかとどうしようもなかったけれど、今日来てみて、どもっていてもみんな堂々としゃべっているし、やっぱりどもりなんかで悩まずに、もっと大事なものがあるんじゃないかと思った」と発言していました。今の彼の活動につながる貴重なことばのように思いました。
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 祝賀会が終わってから、井上さんが大阪吃音教室のみんなに送ったメールを少しだけ紹介します。

昨日はお祝い会ありがとうございました。
温かい雰囲気で、やっぱりみなさんに祝ってもらえた会は格別でした。
20数年前に伊藤さんたちと出会って、今こんな風にお祝いしてもらえるとは想像もしませんでした。吃音を否定し続けてきた十代に伊藤さんたちと出会えたのは本当に幸運だったと思います。

自己肯定感が低く、他者信頼もできなかった私ですが、結婚を通じて、何十年も会っていなかった親戚にお祝いしてもらったり、彼女のたくさんの友人に祝ってもらったり、若いころ私と仲の悪かった親が嬉しそうにしてくれたり、そして私の大切な仲間である皆さんにお祝いしてもらえて、伊藤さんが言っていった「世間ってそんなに悪いもんじゃない」
と改めて思いました。
吃音で良かったか?というテーマが吃音教室であがることがありますが、多分吃音でよかったんだろう、と今思っています(^^)

動画のどもりQ&A「第一声が出ない」は再生回数が8000回を超えました。好評価も49件入っています。今後も必要な人に、必要な分だけ届けることができたらいいな、と思っています。


 高校生で吃音親子サマーキャンプに参加した人が、こうして吃音の取り組みに多大な貢献をし、多くの仲間に囲まれて結婚祝賀会が開かれる。短い時間ではなく、長いつきあいができる僕たちの取り組みの醍醐味がここにあります。とても幸せな気持ちになれた5時間近くのロングラン祝賀会は、いろんな思いにさせてくれました。結婚してからも、吃音についての僕たちの取り組みを一緒に続けていくと宣言してくれました。ありがたいことです。
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 井上さんががんばってくれた映像記録は、日本吃音臨床研究会のホームページに掲載しています。日本吃音臨床研究会のトップページから、映像の記録のコーナーに入ることができます。そこでは、吃音についての一問一答、成人のどもる人が自分の体験を朗読し、その後、僕が質問している映像、竹内敏晴さんから学んだことばのレッスン風景など、見ることができます。
 ぜひ、周りの人に、このユーチューブでみられる映像の紹介をしていただけるとありがたいです。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2019/2/13

映画 土井敏邦監督作品『福島は語る』

映画『福島は語る』

 
 僕たち、「吃音を生きる子どもに同行する教師・言語聴覚士の会」の仲間である土井幸美さんが、お連れ合いの土井敏邦さんの新しいドキュメンタリー映画『福島は語る』の案内を送ってくださいました。
福島は語る_0001福島は語る_0002 2011年3月11日の東日本大震災から、もうすぐ8年になります。この時期に、敏邦さんは、この映画をできるだけ多くの人に見てもらいたいと思われたのだと思います。
 忘れてはいけない、忘れることはできない事実、真実。ひとりひとりの語りの中に、福島は存在し続けるのだと思います。しっかりと向き合うために、ぜひ、皆さんに出会っていただきたいと願っています。
 僕の住む大阪では、3月9日から十三の第七藝術劇場で1週間上映予定です。静かな語る力を、じっくりと味わいたいと思います。僕も仲間と行きたいと思っています。東京では、3月2日から、新宿K's cinemaで、3月9日から渋谷のユーロスペースで、上映が始まります。3月9日から全国一斉上映です。ぜひ、多くの人に見て欲しいです。

 この映画について、何人かの人がコメントを寄せています。そのうちのひとり、このブログでもよく紹介している、僕の「笑いの人間学」の3日間のワークショップの講師をして下さり、その後、つきあいがずっと続き、よくライブにもいく、コメディアンで、この正月にも「アベ政治を許さない」の国会議事堂の集まりでも会った、松元ヒロさんもコメントを寄せています。紹介します。

松元ヒロ(コメディアン)
 家を失い、家族を友を日常生活を失なった人々。「でもこの故郷、福島が好き。ここが故郷で良かった」と笑顔で言いながら泣いている人が私を更に泣かす。福島の四季、美しい景色をバックに流れるエンディング曲「ああ福島」でまた涙が…。あきらめずに生きている人たちがいる。

 そして、制作者の敏邦さんのことばを紹介します。

なぜ『福島は語る』を制作したのか
                           監督 土井敏邦
言葉の映像化
 この映画は、福島の被災者たちの“証言ドキュメンタリー”です。派手な動きがあるわけではありません。ひたすら、“語り”が続きます。観る人が単調で退屈だと感じて途中で投げ出すなら、この映画は失敗です。しかし“語り”に観る人が引き込まれ、最後まで観てくれる力があれば、この映画は意義があります。私はこの映画で、“言葉の力”に賭けてみました。
 なぜ今、“言葉”なのか。原発事故から8年になろうとする現在の日本で、「フクシマ」は多くの人びとから「もう終わったこと」として忘れさられようとしています。2020年の東京オリンピックの話題に、社会の関心が高まるにつれ、その傾向は強まっています。
福島の為政者たちも、「風評被害の払拭」「復興」の名の下に、「フクシマ」の現実を覆い隠そうとしているようにも見えます。
 しかし、「原発事故」によって人生を狂わされ、夢や未来を奪われ、かつての家族や共同体の絆を断ち切られ、“生きる指針”さえ奪われた被災者たちの“生傷”は癒えることなく、8年近くになる今なお、疼き続けています。
 ただそれは、平穏に戻ったかのような現在の福島の光景からは、なかなか見えてきません。その“生傷”を可視化する唯一の手立ては、被災者たちが語る“言葉”です。この映画は、その“言葉”の映像化を試みた作品です。

福島の証言を残すこと
 本作『福島は語る』の取材を開始したのは、私の前作『飯舘村―放射能と帰村―』の劇場公開から1年後の2014年4月です。きっかけは、この年の春、福島原発告訴団が東京・豊島公会堂で開催した「被害者証言集会」でした。800人の観衆で埋まったこの集会で、数人の被災者の方々が、自らの原発事故後の体験と心情を語りました。その一人ひとりの証言は聞く者の胸に迫ってくる切実な体験でした。その訴えを聞きながら、私は「被災者の方々のこれらの貴重な体験を、会場の800人にしか聞いてもらえないのはあまりに惜しい。原発事故の被災者たちの切実な声をもっと多くの人たち聞いてもらうために記録し残そう」と思いました。それがこの証言映画を作ろうと決心した直接の動機です。
 実際に証言を集めようとするとき、真っ先にぶつかった問題はどうやって語ってくれる被災者たちを探すかです。私は、あの「被害者証言集会」を開いた福島原発告訴団の団長、武藤類子さんに相談し、告訴団のメンバーの中から紹介してもらうことにしました。武藤さんが紹介してくださった方々たちの取材を開始したのは2014年4月です。福島原発告訴団のメンバーの方々、そしてその方たちに紹介してもらった他の被災者の方々を私は車で訪ね回りました。その数は4年間で100人近くになりました。
 しかしそれまでのインタビュー映像を粗編集してつないでみると、自分の胸にストンと落ちる記録映像ではありませんでした。“胸に染み入る深さ”がないのです。
 原発事故後に自分や家族に起こった事象、今に至るまでの生活環境の変化、その中で抱え込んだ「問題」はある程度表現されていましたが、語る人の内面、“深い心の傷”“痛み”が十分に引き出せてはいませんでした。つまり「問題」は描けていても、その中で呻吟する“人間”が描き切れていなかったのです。

人間を描くこと
 私は、1980年半ばからほぼ30数年にわたって“パレスチナ”の現場を取材し日本に伝えてきました。試行錯誤の長い取材体験と報道の中で学んだことの一つは、“伝え手”は現場で起きる現象や事件を描くことだけではなく、“人間”に迫り、伝えなければならないということでした。
 中東・パレスチナのような「遠い問題」を日本人に伝えるには、私たちが描く現地の人びとの姿の中に、日本人である自分と同じ“人間”を見せていかなければなりません。観る人、読む人が「もし自分があの人だったら」「これが自分の息子だったら」と、自らをその相手に投影させる“人間”を突き出して見せなければなりません。そのためには“人間として普遍的なテーマ”に迫る必要があります。例えば「人が生きるとはどういうことか」「生きるために何が一番大切なのか」「人の幸せとは何か」「家族とは何か」「土地・故郷とは何か」「自由とは何か」「抑圧とは何か」「死とは何か」といったテーマです。それらが欠落し、現象や問題だけを伝えるのであれば、所詮、「自分とは関係のない遠い問題」でしかないのです。
 私は「フクシマ」も同じだと思いました。
 インタビューで聞き出す言葉が単に周囲で起こる現象や事件だけに終わってしまっては、「人間を描く」ことにはなりません。福島の原発事故がもたらした事象やその特殊性を突き抜けた“人間の普遍的なテーマ”に迫る言葉を引き出せていなかったのです。それは、証言者側の問題というより、彼らがなかなか言語化できずに心の奥底に沈殿させているその深い思いを引き出す私の “能力”の問題であり、私の“人の内面を見抜く目” “人間への洞察力”の問題でした。つまり“聞き手”の私自身の生き方、人間観、思想が問われていたのです。



日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2019/2/11

ピノッキオの冒険

ピノッキオの冒険〜ハーゼでの絵本の集い〜

 2月3日、これまで何回か紹介したことがある、近所の絵本カフェ「ハーゼ」での絵本の集いでした。今回取り上げる絵本は、「ピノッキオの冒険」です。
 ピノッキオについては、ジェベットじいさんが作ったあやつり人形でいろいろな冒険をする、うそをつくと鼻が伸びる、最後はサメに飲み込まれたおじいさんを助けていい子になったので人間の子どもになる、くらいしか知りません。詳しい話を知らないまま、参加しました。

 ハーゼに着くと、テーブルの上には、たくさんのピノッキオの絵本とグッズが並べられていました。あやつり人形、鉛筆削り、ブックエンド、長い鼻を利用したジョーロ、パズルなど、見ているだけでも楽しくなってくるものばかりです。それは、ハーゼの店主、長谷雄一さんがイタリアに行って、買ってきたものだとのことでした。長谷さんは、よく海外旅行をされます。一応ツアーで行くらしいのですが、観光が目的ではなく、離団して、自分の興味・関心のある童話・絵本の原作者や舞台となった土地を訪ねます。たとえば、ピノッキオを訪ねる旅、ムーミンを訪ねる旅、くまのプーさんを訪ねる旅、赤毛のアンを訪ねる旅、というふうに。

 ピノッキオの作者は、イタリアのコッローディとなっていますが、実は、これは、作家カルロ・ロレンツィーニのペンネームで、母が生まれた町の名前からとったそうです。コッローディは、フィレンツェから電車で1時間半ほど行ったところの町です。そこに、ピノッキオ公園があるそうです。その公園の隣には、ピノッキオの話に出てくる「赤エビ亭」というレストランがあり、長谷さんはそこで食事をしたとのこと。そのレストランの写真も見せてもらいましたが、立派なレストランです。メニューのコピーもいただきました。長谷さんたちは、ピノッキオコースとジェペットコースを食べたとのことでした。

 「ピノッキオの冒険」のお話のあらすじは、いたずら者の木の人形「ピノッキオ」が家出をし、悪の道に引きずり込まれそうになりながらも、ジェッベットじいさんの愛により人間の心に目覚めるという物語です。1883年、イタリアで初めて出版されました。はじめ、子ども向けの挿絵入り週刊誌「こども新聞」に、1881年7月7日の創刊号から連載されていて、10月27日発行の第15章で、哀れなピノッキオがふたりの恐ろしい人殺しの手にかかり死んでしまうところで連載が終了さ〜って、絵本の世界が広がりました。子どものころ、読んだきりになっている絵本が、今、新しいものとして現れたという気がします。この高揚感、もう少し味わってみたいと思います。
 また、長谷さんのおっしゃる「自律性」は僕にとってもキーワードなので、ピノッキオと周りがどのように対話をしたか。「対話」をキーワードにピノッキオを読み込んでみようと、さっそく「ピノッキオの冒険」を注文しました。読むのがとても楽しみです。読んだ後の感想をまた報告します。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2019/2/8
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