伊藤伸二の吃音(どもり)相談室

「どもり」の語り部・伊藤伸二(日本吃音臨床研究会代表)が、吃音(どもり)について語ります。

2019年02月

吃音の映像の制作者・井上さんの結婚祝賀会

井上詠治さんの結婚祝賀会

 僕たちの仲間である井上詠治さんが昨年結婚し、その祝賀会が2月10日、行われました。大阪スタタリングプロジェクトのレクレーション担当が企画してくれたものでした。
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 当日、30名ほどの人が集まり、賑やかで楽しく温かいひとときを過ごしました。
 井上さんとの出会いは、26年前にさかのぼります。そのとき、井上さんは、高校2年生でした。吃音親子サマーキャンプに参加した彼と初めて出会ったのです。サマーキャンプに何回か参加して、その後、ブランクはあったのですが、大阪スタタリングプロジェクトの仲間として加わるようになり、特に、ホームページの映像記録に関して大きな力を発揮してくれています。

 吃音に関するネガティヴな情報が多い中、なんとか僕たちの考えや取り組みを発信できないかと考えてくれて、吃音親子サマーキャンプや吃音講習会に、重い機械を持ってきて、撮影し、それを編集して、ホームページに掲載するということをしてくれています。研究会のホームページに載せている吃音の動画は、井上さんによるものです。文字だけではなく、映像の持つ力は大きいと、撮影機や録音機を自分で購入し、膨大な作業をしてくれて、大いに貢献してくれています。そのエネルギーの原動力はどこにあるのかと思うくらい、力を入れてくれています。僕たちの生きる姿を見せていくことの影響力を感じてくれているのでしょう。

 沖縄でのキャンプにも、第1回から参加し、自分を語っています。参加している子どもたちや保護者にとって、どもる先輩、メンターとしての井上さんのことばはしっかりと心に届いているものと思います。
 これだけ貢献してくれているのに、彼は、「自己肯定感が低い」と以前は自分でよく言いました。でも、結婚を通して、彼に変化が訪れているのを感じます。祝賀会の最後に、彼は、結婚は他者信頼を実感できる場だったと言いました。結婚式当日までは、二人で準備ができたが、当日は全て他者に任せた。助けてほしいとお願いすることが多かった。人に助けてもらうことの大切さを知ったというのです。そして、たくさんの人から、「おめでとう」と声をかけてもらい、関わりの大切さを実感したとのことでした。これで、きっと井上さんの自己肯定感もあがっていくのではと思います。

 高校2年生で参加した吃音親子サマーキャンプで、最初、井上さんは、「どもっているとき、周りの視線が気になる。じっとこちらを見られるのはつらい」と発言しました。3時間を超える話し合いの最後に、「俺も昔っからどもりで悩みまくって、もうなんで俺だけがどもるのかとどうしようもなかったけれど、今日来てみて、どもっていてもみんな堂々としゃべっているし、やっぱりどもりなんかで悩まずに、もっと大事なものがあるんじゃないかと思った」と発言していました。今の彼の活動につながる貴重なことばのように思いました。
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 祝賀会が終わってから、井上さんが大阪吃音教室のみんなに送ったメールを少しだけ紹介します。

昨日はお祝い会ありがとうございました。
温かい雰囲気で、やっぱりみなさんに祝ってもらえた会は格別でした。
20数年前に伊藤さんたちと出会って、今こんな風にお祝いしてもらえるとは想像もしませんでした。吃音を否定し続けてきた十代に伊藤さんたちと出会えたのは本当に幸運だったと思います。

自己肯定感が低く、他者信頼もできなかった私ですが、結婚を通じて、何十年も会っていなかった親戚にお祝いしてもらったり、彼女のたくさんの友人に祝ってもらったり、若いころ私と仲の悪かった親が嬉しそうにしてくれたり、そして私の大切な仲間である皆さんにお祝いしてもらえて、伊藤さんが言っていった「世間ってそんなに悪いもんじゃない」
と改めて思いました。
吃音で良かったか?というテーマが吃音教室であがることがありますが、多分吃音でよかったんだろう、と今思っています(^^)

動画のどもりQ&A「第一声が出ない」は再生回数が8000回を超えました。好評価も49件入っています。今後も必要な人に、必要な分だけ届けることができたらいいな、と思っています。


 高校生で吃音親子サマーキャンプに参加した人が、こうして吃音の取り組みに多大な貢献をし、多くの仲間に囲まれて結婚祝賀会が開かれる。短い時間ではなく、長いつきあいができる僕たちの取り組みの醍醐味がここにあります。とても幸せな気持ちになれた5時間近くのロングラン祝賀会は、いろんな思いにさせてくれました。結婚してからも、吃音についての僕たちの取り組みを一緒に続けていくと宣言してくれました。ありがたいことです。
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 井上さんががんばってくれた映像記録は、日本吃音臨床研究会のホームページに掲載しています。日本吃音臨床研究会のトップページから、映像の記録のコーナーに入ることができます。そこでは、吃音についての一問一答、成人のどもる人が自分の体験を朗読し、その後、僕が質問している映像、竹内敏晴さんから学んだことばのレッスン風景など、見ることができます。
 ぜひ、周りの人に、このユーチューブでみられる映像の紹介をしていただけるとありがたいです。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2019/2/13

映画 土井敏邦監督作品『福島は語る』

映画『福島は語る』

 
 僕たち、「吃音を生きる子どもに同行する教師・言語聴覚士の会」の仲間である土井幸美さんが、お連れ合いの土井敏邦さんの新しいドキュメンタリー映画『福島は語る』の案内を送ってくださいました。
福島は語る_0001福島は語る_0002 2011年3月11日の東日本大震災から、もうすぐ8年になります。この時期に、敏邦さんは、この映画をできるだけ多くの人に見てもらいたいと思われたのだと思います。
 忘れてはいけない、忘れることはできない事実、真実。ひとりひとりの語りの中に、福島は存在し続けるのだと思います。しっかりと向き合うために、ぜひ、皆さんに出会っていただきたいと願っています。
 僕の住む大阪では、3月9日から十三の第七藝術劇場で1週間上映予定です。静かな語る力を、じっくりと味わいたいと思います。僕も仲間と行きたいと思っています。東京では、3月2日から、新宿K's cinemaで、3月9日から渋谷のユーロスペースで、上映が始まります。3月9日から全国一斉上映です。ぜひ、多くの人に見て欲しいです。

 この映画について、何人かの人がコメントを寄せています。そのうちのひとり、このブログでもよく紹介している、僕の「笑いの人間学」の3日間のワークショップの講師をして下さり、その後、つきあいがずっと続き、よくライブにもいく、コメディアンで、この正月にも「アベ政治を許さない」の国会議事堂の集まりでも会った、松元ヒロさんもコメントを寄せています。紹介します。

松元ヒロ(コメディアン)
 家を失い、家族を友を日常生活を失なった人々。「でもこの故郷、福島が好き。ここが故郷で良かった」と笑顔で言いながら泣いている人が私を更に泣かす。福島の四季、美しい景色をバックに流れるエンディング曲「ああ福島」でまた涙が…。あきらめずに生きている人たちがいる。

 そして、制作者の敏邦さんのことばを紹介します。

なぜ『福島は語る』を制作したのか
                           監督 土井敏邦
言葉の映像化
 この映画は、福島の被災者たちの“証言ドキュメンタリー”です。派手な動きがあるわけではありません。ひたすら、“語り”が続きます。観る人が単調で退屈だと感じて途中で投げ出すなら、この映画は失敗です。しかし“語り”に観る人が引き込まれ、最後まで観てくれる力があれば、この映画は意義があります。私はこの映画で、“言葉の力”に賭けてみました。
 なぜ今、“言葉”なのか。原発事故から8年になろうとする現在の日本で、「フクシマ」は多くの人びとから「もう終わったこと」として忘れさられようとしています。2020年の東京オリンピックの話題に、社会の関心が高まるにつれ、その傾向は強まっています。
福島の為政者たちも、「風評被害の払拭」「復興」の名の下に、「フクシマ」の現実を覆い隠そうとしているようにも見えます。
 しかし、「原発事故」によって人生を狂わされ、夢や未来を奪われ、かつての家族や共同体の絆を断ち切られ、“生きる指針”さえ奪われた被災者たちの“生傷”は癒えることなく、8年近くになる今なお、疼き続けています。
 ただそれは、平穏に戻ったかのような現在の福島の光景からは、なかなか見えてきません。その“生傷”を可視化する唯一の手立ては、被災者たちが語る“言葉”です。この映画は、その“言葉”の映像化を試みた作品です。

福島の証言を残すこと
 本作『福島は語る』の取材を開始したのは、私の前作『飯舘村―放射能と帰村―』の劇場公開から1年後の2014年4月です。きっかけは、この年の春、福島原発告訴団が東京・豊島公会堂で開催した「被害者証言集会」でした。800人の観衆で埋まったこの集会で、数人の被災者の方々が、自らの原発事故後の体験と心情を語りました。その一人ひとりの証言は聞く者の胸に迫ってくる切実な体験でした。その訴えを聞きながら、私は「被災者の方々のこれらの貴重な体験を、会場の800人にしか聞いてもらえないのはあまりに惜しい。原発事故の被災者たちの切実な声をもっと多くの人たち聞いてもらうために記録し残そう」と思いました。それがこの証言映画を作ろうと決心した直接の動機です。
 実際に証言を集めようとするとき、真っ先にぶつかった問題はどうやって語ってくれる被災者たちを探すかです。私は、あの「被害者証言集会」を開いた福島原発告訴団の団長、武藤類子さんに相談し、告訴団のメンバーの中から紹介してもらうことにしました。武藤さんが紹介してくださった方々たちの取材を開始したのは2014年4月です。福島原発告訴団のメンバーの方々、そしてその方たちに紹介してもらった他の被災者の方々を私は車で訪ね回りました。その数は4年間で100人近くになりました。
 しかしそれまでのインタビュー映像を粗編集してつないでみると、自分の胸にストンと落ちる記録映像ではありませんでした。“胸に染み入る深さ”がないのです。
 原発事故後に自分や家族に起こった事象、今に至るまでの生活環境の変化、その中で抱え込んだ「問題」はある程度表現されていましたが、語る人の内面、“深い心の傷”“痛み”が十分に引き出せてはいませんでした。つまり「問題」は描けていても、その中で呻吟する“人間”が描き切れていなかったのです。

人間を描くこと
 私は、1980年半ばからほぼ30数年にわたって“パレスチナ”の現場を取材し日本に伝えてきました。試行錯誤の長い取材体験と報道の中で学んだことの一つは、“伝え手”は現場で起きる現象や事件を描くことだけではなく、“人間”に迫り、伝えなければならないということでした。
 中東・パレスチナのような「遠い問題」を日本人に伝えるには、私たちが描く現地の人びとの姿の中に、日本人である自分と同じ“人間”を見せていかなければなりません。観る人、読む人が「もし自分があの人だったら」「これが自分の息子だったら」と、自らをその相手に投影させる“人間”を突き出して見せなければなりません。そのためには“人間として普遍的なテーマ”に迫る必要があります。例えば「人が生きるとはどういうことか」「生きるために何が一番大切なのか」「人の幸せとは何か」「家族とは何か」「土地・故郷とは何か」「自由とは何か」「抑圧とは何か」「死とは何か」といったテーマです。それらが欠落し、現象や問題だけを伝えるのであれば、所詮、「自分とは関係のない遠い問題」でしかないのです。
 私は「フクシマ」も同じだと思いました。
 インタビューで聞き出す言葉が単に周囲で起こる現象や事件だけに終わってしまっては、「人間を描く」ことにはなりません。福島の原発事故がもたらした事象やその特殊性を突き抜けた“人間の普遍的なテーマ”に迫る言葉を引き出せていなかったのです。それは、証言者側の問題というより、彼らがなかなか言語化できずに心の奥底に沈殿させているその深い思いを引き出す私の “能力”の問題であり、私の“人の内面を見抜く目” “人間への洞察力”の問題でした。つまり“聞き手”の私自身の生き方、人間観、思想が問われていたのです。



日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2019/2/11

ピノッキオの冒険

ピノッキオの冒険〜ハーゼでの絵本の集い〜

 2月3日、これまで何回か紹介したことがある、近所の絵本カフェ「ハーゼ」での絵本の集いでした。今回取り上げる絵本は、「ピノッキオの冒険」です。
 ピノッキオについては、ジェベットじいさんが作ったあやつり人形でいろいろな冒険をする、うそをつくと鼻が伸びる、最後はサメに飲み込まれたおじいさんを助けていい子になったので人間の子どもになる、くらいしか知りません。詳しい話を知らないまま、参加しました。

 ハーゼに着くと、テーブルの上には、たくさんのピノッキオの絵本とグッズが並べられていました。あやつり人形、鉛筆削り、ブックエンド、長い鼻を利用したジョーロ、パズルなど、見ているだけでも楽しくなってくるものばかりです。それは、ハーゼの店主、長谷雄一さんがイタリアに行って、買ってきたものだとのことでした。長谷さんは、よく海外旅行をされます。一応ツアーで行くらしいのですが、観光が目的ではなく、離団して、自分の興味・関心のある童話・絵本の原作者や舞台となった土地を訪ねます。たとえば、ピノッキオを訪ねる旅、ムーミンを訪ねる旅、くまのプーさんを訪ねる旅、赤毛のアンを訪ねる旅、というふうに。

 ピノッキオの作者は、イタリアのコッローディとなっていますが、実は、これは、作家カルロ・ロレンツィーニのペンネームで、母が生まれた町の名前からとったそうです。コッローディは、フィレンツェから電車で1時間半ほど行ったところの町です。そこに、ピノッキオ公園があるそうです。その公園の隣には、ピノッキオの話に出てくる「赤エビ亭」というレストランがあり、長谷さんはそこで食事をしたとのこと。そのレストランの写真も見せてもらいましたが、立派なレストランです。メニューのコピーもいただきました。長谷さんたちは、ピノッキオコースとジェペットコースを食べたとのことでした。

 「ピノッキオの冒険」のお話のあらすじは、いたずら者の木の人形「ピノッキオ」が家出をし、悪の道に引きずり込まれそうになりながらも、ジェッベットじいさんの愛により人間の心に目覚めるという物語です。1883年、イタリアで初めて出版されました。はじめ、子ども向けの挿絵入り週刊誌「こども新聞」に、1881年7月7日の創刊号から連載されていて、10月27日発行の第15章で、哀れなピノッキオがふたりの恐ろしい人殺しの手にかかり死んでしまうところで連載が終了さ〜って、絵本の世界が広がりました。子どものころ、読んだきりになっている絵本が、今、新しいものとして現れたという気がします。この高揚感、もう少し味わってみたいと思います。
 また、長谷さんのおっしゃる「自律性」は僕にとってもキーワードなので、ピノッキオと周りがどのように対話をしたか。「対話」をキーワードにピノッキオを読み込んでみようと、さっそく「ピノッキオの冒険」を注文しました。読むのがとても楽しみです。読んだ後の感想をまた報告します。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2019/2/8
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