伊藤伸二の吃音(どもり)相談室

「どもり」の語り部・伊藤伸二(日本吃音臨床研究会代表)が、吃音(どもり)について語ります。

2016年09月

言友会創立50年 言友会誕生のエピソード


 言友会が、創立50周年大会を明日から開くそうです。全国言友会連絡協議会の斉藤圭祐事務局長から、50年をふりかえるセレモニーで紹介したいので、メッセージを寄せて欲しいと依頼がありました。
 1965年の秋に創立し、翌年4月に発会式をして50年。感慨深いものがあります。言友会とは20年以上も前に僕は袂を分かち、関係はなくなり、僕たちの大阪の会である、大阪スタタリングプロジェクトとは、ずいぶん考え方の違いが出てきましたが、僕が言友会を創立した歴史的事実は変わりません。
 そこで、もう誰も知らなくなったであろう、言友会の創立のエピソードを短く書いてメッセージとして送りました。詳しいことは、『吃音者宣言 言友会運動10年』(たいまつ社)に書いてあります。そこに書いた、創立のエピソードと、全国組織へと広がるきっかけとなった二人との出会いのエピソードを何回かに分けて紹介します。

 

 言友会誕生のエピソードと言友会活動の思い出 1

 どもり講談教室での出合い

 偶然に会い、なんとなく別れてゆく淡白な出会いの多いなかで、その人と私の出会いは何かが起こりそうな、そんな殺気をはらんでいた。
 民間矯正所に籍を置き、「どもりが治るのならなんでもやってやろう」と意気盛んだった私は、「講談のリズムでどもりを治そう」との田辺一鶴さんの呼びかけにもすぐに応じていた。今でこそテレビ・寄席などで大活躍の一鶴さんも、トレードマークのヒゲがまだ生えやらぬほんのかけ出しだった。どもりを治すために講談の世界に入り、講談ではどもらなくなったという実績をふまえての呼びかけだけに、かなりの人が集まっていた。

 1人での個人参加が多いなかで、ひときわ声高にしゃべる集団参加の一団があり、その声がそれでなくてもおとなしいまわりの人達をますますおとなしくさせていた。私が矯正所仲間を大勢ひきつれて顔をみせていたのだった。一応の説明が終わった時、おとなしいはずの参加者のなかから異質な人間が前に出て、「先生」と、大声を出した。これまでの説明の間には見かけなかった顔だった。医者と教師以外の「先生、先生」に不快感を持っている私には、それだけでいやになっていた。
 
 「私もどもりを治すためのこのような会のできるのを待っていました。私も一生懸命やりますから頑張りましょう」と握手を求め、贈り物まで手渡した。説明も聞いていないで、私達大集団をさしおいての大きな態度に私達は相当頭にきていた。
 矯正所仲間のなかで、どもることにかけては質量共に1番と折り紙つきのK君には、態度そのものより彼の口から飛び出す流暢な日本語にがまんならなかった。会合が終るとK君はその人に詰め寄っていた。「君は全然どもらないのになぜこの会に来たのか?それに贈り物なんかして何か魂胆でもあるのか」。仲間内では通じるK君のことばもその人には通じなかったかも知れない。しかし、K君の態度からただごとでないことはわかったらしかった。

 一瞬殺気立った空気が流れ、帰りかけていた人も立ち止まった。「なあ、みんなで食事でもしてゆっくり話そうや」と、声をかけたのは今は故人となられた親話会(どもり矯正会)の依田さんだった。冷静に考えれば彼に詰め寄る積極的な理由を見つけられなかった私達は、その言葉に救われた思いだった。むしろK君の森の石松ぶりにおかしさすら感じていた私達は、むろん全員参加でのぞんだ。

 おなかが一杯になったK君がおとなしかったので話ははずんだ。「遅れて来たんで、すわる場所がなかったんです。それで『チョット』と思ったパチンコで、思いがけずにとれた景品を、持って帰るのもめんどうなので渡したのがどうも誤解されてしまって」と、その人はテレて説明をした。大笑いだった。誤解はとれてもK君にとっては、「私も前はひどいどもりで苦しんだんです」のことばだけは納得いかなかったらしい。それだけその人の日本語は確かなものだった。
 この人こそ、言友会の生みの親、長い間東京言友会の会長をつとめ、全国言友会運動の先頭にも立つ丹野裕文その人だった。そして民間矯正所の仲間をひきつれてきていたお山の大将は、当時大学1年生の私で、言友会はこの2人の殺気だった出合いから始まったのだった。

 矯正所で格闘するどもりたち

 私には、丹野さんがどもるどもらないより、彼が歯学部の学生で家が歯科を開業していることの方に関心があった。私の歯はやぶ医者に徹底的に痛めつけられていたのだった。私はずうずうしくもさっそく丹野さんの家を今度は一人でたずねていた。これが丹野さんと私のつきあいの始まりである。
 私の虫歯が治るころ、一鶴さんの「講談教室」への参加は随分減っていた。また依田さんの親話会も謡曲が中心で若者の心をとらえることはできなかった。

 私の通っていた矯正所といえば、「ユックリ、呼吸を整えて話せば治る」というのが基本で、「わーたーくーしーはー」の、どこか間の抜けた話し方を守る者が優等生ということになっていた。早口でしゃべりまくる私など、基本に忠実でない劣等生であった。まじめな人間からは、「君は本当にどもりで悩んでるのか」とまじめに聞かれもした。
 ここには北は北海道から南は沖縄まで全国各地のドモリストが集まり、社会人の多くが職を捨ててまできていた。中小企業で働く者に、1ヵ月間の吃音矯正のための東京行きは職を捨てることにも等しかった。よくなったと喜んで帰る人に、「あれは一時的なもので、すぐに元にもどるさ」と、3回目というS氏が先輩顔に話すのが印象的であった。でもみんな一生懸命に頑張っていたし、雰囲気も結構楽しいものであった。
 劣等生の私には、いつの頃からかどもりの治る治らないより、どもりの人がこんなにもいて、それぞれ力いっぱい闘っているのだという現実に関心があった。私はどもりがこんなにも大勢いる、ということが大きなショックだったのだ。

 吃音者の組織づくりを決心する

 矯正所の有効期間も終り、講談にもあき始めていた私は、赤倉という学生と丹野さんを訪れていた。当時を振り返って丹野さんは、
 「私は講談のリズムによる矯正法というよりも吃音者の会づくりに興味をもち、毎回出席していたが、その間多くの吃音者と知りあいになることができたのである。そしてその中の数名の人とともに親話会の会合に出席し、一鶴氏の講談教室と合併して新たな会を作っては、と提案したが予期に反して猛反対にあってしまった。
 私としても、以前吃音者の会づくりに失敗している経験があるので、新たな会づくりの意欲はなく、また一鶴氏の教室のように会員の減少を見るにつけても、吃音者の組織づくりの至難さがつくづくわかるのである。
 そんなとき私の家へ、一鶴教室で知りあった赤倉智(日大生)、伊藤伸二(明大生)の2人が訪れ、是非とも自分たちで新しい会を作ろうと相談をもちかけてきた。
 しかし、私としても以前の失敗があるので、即座に応ずるわけにはいかなかった。が彼等の情熱と若いエネルギーならばもしかしたら今度は成功するかも知れない、と思う気持ちもあった。
 そこで彼等に質問した。
『自分はやり出したからには最後までやり通したい。君達にもその意気込みがあるのか?』すると2人は口をそろえて『必ずやり通す。失敗しても最後まで頑張っていく』と熱意をこめて答えてくれたので、『それでは!』と会づくりをする決心をしたのである」。
(言友会誌『泪羅』7号より)

 言友会結成

 昭和40年10月、13名のサムライが上野公園に集まった。熱っぽい話し合いに、映画好きのA君は、「血判状を作って誓おう」とまで言い出した。彼こそ最初の脱落者だったのだから、血判状を作っておけばと悔やまれる。会の名前をつけるのに相当の時間を必要とした。「わかば」「あすなろ」は紅一点のM子さん。政治好きのK君は、「日本吃音同志会」「吃音撲滅同盟」などといかめしい。50近くの名前が出て迷っていた時、それまで押し黙っていた神野芳雄君が重い口を開く、「ことばで結ばれる……ことばのとも……言友会」このことばで「言友会」は誕生した。

 その後の役員人選では、丹野裕文会長、伊藤伸二幹事長以下、11名全員役員という豪華な体制を作りあげた。私達は一日も早く会員を集める必要があった。役員ばかりでは会は動くものではないのだ。
 講談・詩吟・弁論・話し方・社交ダンスのクラブ活動中心の例会は厳しい中にも楽しさいっぱいで、役員の自覚で欠席者はほとんどなく、例会後の喫茶店の語らいがまた楽しく、私達は日曜日の例会が待ち遠しくてならなかった。私達にとって丹野さんはよき先生であり、また、兄貴でもあり、丹野さんの魅力が言友会の全てのような感じだった。それでも1ヵ月もすると、会員が増えていたのに例会参加者は減り、寒い冬の数名の例会はさびしさも一段とこたえた。早くもピンチを迎えたのだ。

 翌41年1月中句、言友会の一大転機を迎えた。丹野さんの投書が朝日新聞に掲載されたのだった。言友会のマスコミ界への初陣であった。

◇サークルへの誘い◇
「現在、日本の吃音矯正はすべて民間に委託されているが、営利が目的で、真に吃音者のためを考えていないようです。それで都内に住む吃音者有志で言友会を作り吃りを吃音者自身の団結の力で克服しようと試みています。
 会員は現在30余人で、弁論、講談などのクラブ活動を行っています。吃音者の参加を歓迎します」。
 反響はすごく、電話や手紙で問い合わせが殺到し、言友会は役員だけの会からの脱皮に成功した。毎週水曜日開かれていた幹事会に新しい人も加わり、熱っぽい話し合いが続いた。終わったあとのおにぎり屋での一杯こそ若い私達をひきつけていた。会の将来を、また先輩の人生をみんなで考え語るうちによく最終電車に乗り遅れ、近くの会員の家で泊ったりもした。丹野さんのエネルギッシュな言動が会に熱っぽい雰囲気を与え、人間関係も血の通ったものになったり、会は除々に力をつけてきた。

 言友会発会式

 昭和41年4月3日、朝日新聞は大スクープをやってのけた。他紙に全く載っていない大きな記事。「力を合わせてどもり克服に励む言友会、今日発会式」3段抜きの大きな扱いに、私たちの2ヵ月にわたる努力がむくわれた思いだった。例会にほとんどの会員が参加し、演劇に講談にと練習にはげんでいたのだった。新聞を見ると私はすぐに丹野さんの家に向った。
 2人で会場に向う車のなかで私達ははしゃいでいた。「あんなに大きく出たんだから200人は来るな」「いや300はかたいよ」やけに車が遅かった。みんなもすでに新聞のことを知っていてうれしそうに準備をしていた。記者席、来賓席は前列に用意した。私といえば300人の大聴衆の前での報告を頭にえがいて胸は高なっていた。しかし開始の時間が来ても目につくのは準備をしている会員だけ、30分遅らせても結果は同じで、会員すら全員参加でなく、新聞を見てきた人などほとんどいなかった。
 私たちはここでやっと現実に戻らなければならなかった。やたらと主のない椅子席が目立ち、私はそこに目をやりながらこれまでの会の報告をした。どもる元気もなかった。でも、会員は出席者の少ないのに反発するかのような熱演ぶりだった。中でも演劇部の「模擬国会」の迷演には、笑いとひやかしの声援がとんだ。みんな素直に自分の地を出していたのだ。
            『吃音者宣言 言友会活動10年』 (たいまつ社) 1976年より

日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2016年9月16日

オープンダイアローグのひとつの形

 吃音親子サマーキャンプの話し合いは、オープンダイアローグ

 オープンダイアローグを知って、27年続いている吃音親子サマーキャンプの話し合いは、それに近いと思いました。初日の夜に、90分の話し合いがあり、二日目の朝は90分、吃音について一人で向き合い、その思いを文章に綴ります。そして、昼食後に120分の話し合いがあります。キャンプと言えば、楽しいものを連想しますが、初めて参加したことばの教室の先生や、言語聴覚士らの専門家は、こんなに自分の吃音について向き合うのかとびっくりします。

 この話し合いが、吃音親子サマーキャンプのふたつの柱のひとつです。もうひとつは、劇の稽古と上演の取り組みを通して、自分のことばと向き合います。ウォークラリーの2時間ほどだけが遊びの要素で、後は、話し合いで吃音と向き合い、劇の稽古で、どもる自分のことばに向き合う3日間です。大人からみれば楽しい要素のあまりないキャンプに見えますが、子どもたちは楽しかったと言います。

 僕は与えられた面白さや楽しさではなく、自分に向き合い、自分自身がもつ課題に挑戦し、それをそれなりに達成した時に喜びを感じ、それが結果として「楽しかった」になるのだと、確信しています。だから、このプログラムは23年ほどまったく変わっていません。自分と向き合うことは、時につらいけれど、何かをつかんだときは、大きな喜びになるのです。話し合いの後の、子どもたちのさわやかな笑顔をずいぶん見てきました。

 大学や、言語聴覚士の専門学校で、「伊藤さんの印象に残っている、子どもはいますか」と尋ねられることがあります。話し合いの時、劇の稽古の時、上演の時、食事をしている時、子どもは様々な場面で、いきいきと生きている姿を僕に見せてくれます。それぞれに印象に残っている子どもはたくさんいますが、オープンダイアローグの視点からも、総合的にも強い印象に残り、今後も語り継ぎたい、子どもを紹介します。以前もブログに書いた子どもです。

 話し合いには、ことばの教室の教師か言語聴覚士の専門家が二人以上と、吃音について深く考えてきた、どもる成人が、ファシリテーターとして加わります。オープンダイアローグの構造と同じです。話し合いはテーマもゴールもありません。「今から、吃音について話し合いますが、テーマはありません。話したいことを話して下さい」でスタートします。誰かが話したことについては、子どももスタッフも必ずレスポンスします。安心してどもれる場で、しっかり聞いてくれる専門家や成人のどもる人がいることで、子どもたちはびっくりするほどよく話します。スタッフのミーティングで、子どもたちの様子について報告しますが、その話し合いの場にいたかったなと思う、子どもたちの様子が話されます。

 吃音親子サマーキャンプに、宮城県女川町から3年連続して参加した4人家族がいました。小学6年の阿部さんは、6年生になって転校生から強いいじめに合い、新学年が始まってすぐに学校へ行けなくなりました。臨床心理士のスクールカウンセラーなどが、相談にのりますが、学校へ行けません。8月の下旬に行われた吃音親子サマーキャンプのときまで、不登校のままです。彼女のしんどさを前もって聞いていた僕は、その年は、彼女のいる小学5年、6年生のグループにファシリテーターとして入りました。
 話し合いが始まり、ぽつりぽつりと子どもたちは自分のことを語り始めます。それにみんなは耳を傾け、レスポンスを返していきます。他の子どもが、どもりながら話す姿に安心したのか、自分が話したことにみんなが必ず応答してくれることに安心したのか、彼女は、「私の話をしてもいいですか」と前置きして、泣きながらこんな話をしました。

 「私は学校の勉強も大好きで、友達もたくさんいて、小学5年生までは楽しく学校に行っていた。ところが、転校生が来て、その子を中心に3人の男の子が、どもることをからかい、いじめるようになった。学校へ行きたいのに、行けなくなった」

 最初は涙をこらえていたのが、途中で泣き出しました。一通り彼女が話した後、子どもたちがいろいろと質問をしていきます。「それはつらかったね」とレスポンスを返すのではなく、遠慮なくいろいろと質問をしていきました。いじめる子の名前、どんな子か、そのときの担任のとった態度、周りの子どもの態度など、話し合いは広がり、深まりました。

 キャンプに参加する子どもの中には、話し合いが一番好きだという子は多く、自分のことを話すことにも、人の話を聞いてレスポンスを返すことにも、複数回参加している子どもは慣れています。それらの子どもに影響されて、初めての子どもも人の話をよく聞いて、自分も話していきます。何度も話し合いを経験している僕も、「この子どもたちはすごいなあ」と驚くほどでした。彼女は、これらの質問に答えていく中で、不登校になっている状況を、客観的に整理することができたのでしょう。だんだんと表情がやわらかくなって来ました。話し合いの最後の、ある男の子のことばに、笑顔が浮かびました。

 「阿部さんはすごいと思う。学校へ行きたいと思うから、自分を変えたいと思うから、遠い、宮城県から参加したんでしょう。僕なんか、近いから参加しやすいけれど、遠くから、お父さん、お母さんと一緒にこのキャンプに参加したことがすごいよ」
 
 ナラティヴアプローチの展開をみているような感じになりました。彼女のストーリーから、子どもたちは「ユニークな結果」と言われる、その子どもの力を見つけていたのです。他の子どもと違って、学校へ行けない「だめな私」から、「自分を変えたいと、がんばっている自分」へとナラティヴを変えることができたのでしょう。ファシリテーターとしての、僕たち大人が入る余地のないほどの、子どもたちだけの話し合いの展開でした。90分の話し合いが終わった、彼女に笑顔がみられました。

 そして、翌朝の作文教室で「どもってもだいじょうぶ」と作文に書きました。3日間のキャンプを終え、いじめていた子どもが、再び、いじめないという保証も何もない学校へ、キャンプが終わってすぐに行き始めました。90分のオープンダイアローグが彼女を回復させたと言えるだろうと思います。もちろん、3日間のキャンプ全体が影響しているとは思いますが、90分のあの話し合いがなければ、学校へ行くきっかけは、まだまだ後のことになったかもしれません。子どものレジリエンスはすごいものです。オープンダイアローグの効果と言えるだろうと、僕は思うのです。その後、楽しい中学時代を送り、将来の明るい夢を語り、仙台の高校に入学が決まっていたのに、2011年3月11日のあの大地震と大津波が彼女の住んでいた町、宮城県女川町を襲いました。彼女は、お母さんと一緒に逃げ遅れて亡くなりました。とても残念ですが、この作文は僕の宝になりました。彼女のことは決して忘れないでおこうと、その後の講演などで、作文を紹介しています。

 
 どもってもだいじょうぶ! 小学6年 阿部莉菜
 私は学校でしゃべることがとてもこわかったです。どうしてかというと、どもるから。しゃべっていても、どもってしまうと、みんなの視線が気になります。そして、なんだか「早くしてよ!」と言われそうで、とってもこわかったです。なんだかこどくに思えました。でも、サマーキャンプはちがいました。今年初めてサマーキャンプに来てみて、みんな私と同じで、どもってるんだ、私はひとりじゃないんだと思いました。そして、夕食後、同じ学年の人と話し合いがありました。そのときに思ったのは、みんな、前向きにがんばってるんだ、なのに私はどもりのことをひきずって、全然前向きに考えてなかった。そのとき、私は思いました。どもりを私のとくちょうにしちゃえばいいんだ。そのとき、キャンプに行く前にお父さんに言われたことを思い出しました。どもりもりっぱな、いい大人になるための、肥料なんだよ。そうだ、どもりは私にとって大事なものなんだ。そういうことを昨日思いました。今日、朝起きたときは、気持ちが楽でした。まだサマーキャンプは始まったばかりだと思うけど、とても学校などでしゃべれる自信がつきました。

日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2016年9月16日

オープンダイアローグ



 先日、斎藤環さんの「オープンダイアローグ」の講演会に行ってきました。

 オープンダイアローグは、日本家族療法学会などでも話題が多くなり、5月には斎藤さんの企画で、開発者の専門家をフィンランドから招き、3日間のワークショップが開かれました。精神医療を刷新するとまでの期待と関心が急速に広がっています。

 フィンランドの画期的な統合失調症に対するこの治療成果に、斎藤さんは最初は半信半疑だったそうです。それが今ではすっかりオープンダイアローグに惚れ込み、「オープンダイアローグとは何か」(医学書院)の書籍を出版したり、日本への導入に向けて精力的に活動を続けておられます。

 オープンダイアローグとは、薬物治療しかなかった、統合失調症などの精神疾患に対して、本人や家族から依頼があれば、24時間以内に家族療法の専門家スタッフでチームをつくり、本人を中心に家族との対話を開始します。これを毎日、10日間前後行うことで、入院せず、薬を使わずに回復するといいます。しかし、薬物治療中心主義の日本の精神医療の世界では、多くの専門家は最初、斎藤さんと同じように、その効果に半信半疑だったそうです。

 僕は、だいぶ前に大阪府立大学の松田博幸さんから教えられて、オープンダイアローグ紹介のドキュメンタリー映画「開かれた対話」を見ていました。その後出版された本を読んでも、日本の精神医療の専門家のようには思いませんでした。それは、どもる人のセルフヘルプグループやアルコール依存症のAAなどのミーティング、北海道浦河のべてるの家の統合失調症の人たちのミーティングや当事者研究に直接参加していて、その効果を知っているので、あの治療効果は納得できることだったからだと思います。

 ただ、僕は、精神的な危機にあった身近な人の精神病棟への強制入院に立ち会った経験があり、それが強烈な印象として残っているので、24時間以内に本人を含めてミーティングが本当に開けるのかと、一瞬は疑問を持ちました。しかし、そのような危機的状況になる前にその人の異変に周りが気づいて、早期に対応できれば、オープンダイアローグは可能だったろうと思いました。確かに僕の知人も、数々のサインを出していたのです。本人は気づいていたし、周りも気づいていながら対応が遅れたのです。フィンランドのオープンダイアローグを実施している病院ではできているのは、この地方の人たちと病院とが、日頃の精神疾患に対する情報が共有できていたからでしょう。
  
 僕が、1965年の秋にどもる人のセルフヘルプグループ言友会を創立して、毎週行ってきたミーティングが、オープンダイアローグであったといえると思います。どもる当事者が対等の立場で、ゴールや目標を定めずに、ひとりひとりの物語に耳を傾け、レスポンスを返し、対話を続けました。その対話の中で、吃音がいわゆる吃音症状の問題ではなく、「どもりは悪い、劣った、恥ずかしいものだ」との物語こそが私たちを苦しめているのだと、気づいていきます。さらに、自分が吃音を認めさえすれば、吃音とともに豊かに生きることができると確信をもつようになります。吃音の否定的な物語を書き換えることができたのは、言語訓練ではなく、この多くの人との対話の力でした。多くの人の吃音の問題は解消し、吃音とともに豊かに生きることができるようになったのは、オープンダイアローグの成果と同じではないかと思うのです。

 しかし、対話さえあれば、このような効果が期待できるという単純なことではないだろうと思います。どもりは劣った、恥ずかしいものだと思い、治さなければならないと考える人たちが、同じように考える人たちと、いくら対話を続けても、悩みの共感にはなっても、新しい選択肢は出てきません。吃音の問題の解消である、吃音とともに豊かに生きる道筋には立てないだろうと思います。やはり、様々な角度からのこれまでとは違う、異質の語り、声が必要なのでしょう。

 オープンダイアローグには、家族療法の専門家が必ず加わります。家族も加わります。ところが、僕たちの対話は、当事者だけです。しかし、いち早く吃音の問題の本質に気づき、これまでとは違う角度から吃音を考えることができた先輩が、オープンダイアローグで必要不可欠な専門家の役割を果たしていたのでしょう。僕たちは、違う考えや異なる意見も大切にし、それらに耳を傾けながら、ゴールを決めずに粘り強く対話を続けました。それは、セルフヘルプグループのミーティングの場だけでなく、様々な活動の場でも続けられました。その結果、いわゆる吃音症状は治らなかったのですが、吃音に悩むことも、生活で困ることもなくなりました。これは、吃音の問題は解消したと言えるでしょう。その成果を文書としてまとめたのが、僕が起草し、1976年に発表した「吃音者宣言」でした。

 どもる人がひどく悩んで、セルフヘルプグループを訪れたとしても、統合失調症の発症の初期の、精神が混乱し、自分自身がどこかに行ってしまうような危機的な状況にはありません。また、子どもの頃から、吃音とともに生きているので、すでに吃音を生きる素地が育成されています。そのために、オープンダイアローグでは絶対に欠かせない家族療法などの専門家が不在でも、吃音の世界では「開かれた対話」によって、統合失調症が回復したのと似たことが、40年も前に起こっていたことになるのです。
 
 今回の2時間の斎藤さんの講演を聞きながら、不思議な感覚に襲われていました。
 なぜ僕たちの成果が正当に評価されなかったかです。回復したとか、治った、改善したとのことばは使いませんでしたが、実際に吃音のマイナスの影響を受けず、吃音と共に楽しく生きることができるようになりました。オープンダイアローグで起こっていることと、ほほ同じことが起こっていたのに、言語病理学、吃音の専門家はその成果にほとんど注目しないのはなぜでしょうか。僕は不思議な思いでいます。
 
 ただ、以前、内須川洸・筑波大学教授と、故水町俊郎・愛媛大学教授だけが、僕たちの成果を評価し、紹介してくれていました。他の専門家はむしろ反発していました。専門家の役割が否定されたと考えたからでしょうか。よく分かりません。

 オープンダイアローグを評価し、日本に広めようとしている、斎藤環さんのような人が、吃音の世界にいてくれたら、吃音の世界は変わっていたに違いない、そう感じました。

 日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2016年9月14日 

櫛谷宗則(くしや しゅうそく) さん いのちの吃音 

 吃音の夏、かなりハードな日程でしたが、なんとか乗り切り、しばらくリフレッシュの旅に出ました。僕が、新人としてのデビュー当時から、大好きだった俳優の高倉健さんは、ひとつの映画が終わると、ひとりでふらりと海外旅行するのが常でした。「吃音とともに豊かに生きる」ことをお勧めしている僕が、しょぼくれていてはいけないので、毎日のスロージョギングと、好きな映画や音楽、芝居、落語、そして旅行と、できるだけ無理をしない程度ですが、楽しく豊かに生きたいと思っています。少し、英気を養ったので、秋に行われ各地の吃音キャンプロードや、書きたい、書かなくてはならない本の執筆にもとりかかろうと思います。
 このブログもできる限り書いていきたいと思います。書きたいこと、書かなくてはならないことがたくさんあるからです。せっかくの発信手段ですから、生かしたいと思います。今日は催しの紹介です。


  自己の存在価値を自身の中に見出す

 9月23日の大阪吃音教室は、「自己の存在価値を自身の中に見出す」のタイトルで話してくださる、外部講師をお迎えします。櫛谷宗則さんという新潟県五泉市にお住まいの禅僧です。縁あって、10年以上前から、おつきあいをさせていただいています。

 2001年6月、朝日新聞のコラム「小さな新聞」で、私たちのニュースレター「スタタリング・ナウ」が紹介されました。その記事を読まれた櫛谷さんから、ご自分が編集し出版しておられる「共に育つ」への原稿依頼がありました。それまで縁のなかった仏教関係の冊子への執筆依頼が、当時、仏教に惹かれ始めていた私にとってはありがたいことでした。毎回、出版されるたびに冊子を送って下さり、私たちのニュースレターもずっと読んで下さっています。読んで、ときどき、はっとするような感想を書いて私を励まし続けて下さっていた方です。
 私が、講演のため、新潟へ出かけたとき、足を延ばして五泉市のお寺にお伺いしたかったのですが、お互いの都合がつかず、お会いすることができませんでした。
 2013年、大阪市天王寺区のプレマ・サット・サンガで2日間座禅会をされると知って、1日参加しました。一番前に座っていた私に、休憩時間、まだ挨拶もしていないのに、「伊藤伸二さんですね」と声をかけて下さいました。そのとき、私の顔をまっすぐに見て「あなたの目は何かと闘っている目だ」と見抜かれました。

 そのとき、何か文章を書いていただけないかとお願いしました。それが、「スタタリング・ナウ」2014年4月21日、NO.236に、「いのちの吃音」という文章です。その文章に添えて下さったお手紙に、櫛谷さんはこう書かれていました。

 「これもご縁と思い、精一杯書かせていただきました。治す派との闘いは、対立しないで伊藤さんご自身の、吃音を光とする生き方を深めていかれること、その生活そのものが一番の道(武器)ではないかとふと思いました」

 昨年9月に、毎年恒例の大阪での座禅法話会に参加し、来年、つまり今年ですが、その前日に大阪入りをしていただき、大阪吃音教室に来ていただけないかとお願いをしました。快く引き受けていただき、今回の講座となりました。柔和で静かで、真実を見抜く厳しい目をお持ちです。その方の前で、僕は、吃音を治す・改善する人たちとの非戦の覚悟を決めたのです。
 今回は、お話と、椅子に座ってのイス座禅、そして参加者からの質問を受ける時間をとっていただいています。
 ぜひ、日常と違う空間を味わって下さい。皆様のお越しをお待ちしています。
 櫛谷さんの紹介は、以下のとおりです。

櫛谷宗則(くしや しゅうそく)
 昭和25年、新潟県五泉市の生まれ。「宿なし興道(こうどう)」といわれた豪快な禅僧、澤木興道老師の高弟、内山興正(こうしよう)老師について19歳で出家得度(しゅっけとくど)。安泰寺(あんたいじ)に10年間安居(あんご)する。老師の隠居地に近い宇治田原町の空家・耕雲庵(こううんあん)に入り、縁ある人と坐りながら老師のもとに通う。老師遷化(せんげ)の後、故郷へ帰り地元などで坐禅会を主宰。大阪では谷町のプレマ・サット・サンガで、毎年9月末に坐禅法話会を続けている。

  <編著書>
『禅に聞け−澤木興道老師の言葉』『澤木興道 生きる力としてのZen』『内山興正老師 いのちの問答』『澤木興道老師のことば』『禅からのアドバイス−内山興正老師の言葉』(以上、大法輪閣(だいほうりんかく))
『コトリと息がきれたら嬉しいな−榎本栄一いのち澄む』(探求社) 『共に育つ』(耕雲庵)など。

日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2016年9月13日

9月10日までお休みです


 前に紹介しましたが、今年の夏も、例年のように忙しい夏でした。「吃音の夏祭り」と名付けて、僕たちのとてもいい仲間と、楽しく祭りを楽しんでいます。

 「吃音を生きる子どもに同行する教師・言語聴覚士の会(吃音プロジェクト)」、NPO法人大阪スタタリングプロジェクト、神戸スタタリングプロジェクトの仲間は、遠く、沖縄、鹿児島、島根、栃木、千葉、埼玉、神奈川、愛知、岐阜、三重、兵庫、大阪などと、離れていますが、一年に何度も顔をそろえるのが「吃音の夏祭り」です。

 「吃音を治す、改善する」の圧倒的多数派の中では、僕たちは極めて少数派です。だからこその強い結びつきがある仲間が、相談会や、講習会、吃音親子サマーキャンプなどを楽しんでいます。その仲間の輪に、今年もたくさんの人たちが加わり、「いい会ですね。楽しいですね。この場は本当にほっとする」などと、言ってくださいました。ほんの少しずつですが、仲間の輪は確実に広がっていると思います。

 夏のハードなスケジュールを乗り切りました。秋には、岡山、群馬、島根、静岡、沖縄と吃音キャンプが毎週あります。執筆しなければならないこともたくさんあります。それに備えて、10日まで少しリフレッシュの旅に出ます。いろいろと考えて、夏祭りの報告や、いろんなことをまたこのブログで発信したいと思います。今、僕たちが発信をやめれば、50年前の暗黒の吃音の世界に逆戻りしそうです。

 これまで、ブログをしっかり更新すると言いながら、なかなか更新できませんでしたが、毎日新聞の記事で、強い危機感をもった僕は、これから、ホームページやこのブログで発信しなければならないと改めて強く思いました。できるだけ更新して発信していきます。

 もし、このブログに興味がもてましたら、できるだけ多く人に紹介していただけるとありがたいです。
 面白い記事がありましたら、できるだけシェアや拡散をしていただければうれしいです。
 また、どんな小さな集まりでも出かけていきますので、僕の話を聞いてやろうと思われたら、ご連絡ください。  僕も今年で72歳、いつまでも続けられるとは思えませんので、今のうちに、できるだけ多くの人と対話をしたいと考えています。

 どうか、今後ともよろしくお願いします。

日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2016年9月4日

どもる人は、あらゆる仕事についている

 当初、九州大学の心療内科で吃音を行動療法で治療、改善に取り組んでいた、水町俊郎さんは、僕との出会のなかで、考え方を転換し、愛媛大学教授の現役のまま亡くなるまで、僕の考え、実践を評価し、論文や著作などで紹介し続けてくださいました。「治すことにこだわらない吃音とのつき合い方」の本の完成を見ぬままに亡くなりました。最後の入院の前日、愛媛大学で2時間ほど、吃音談義を楽しんでおられました。常にどもる僕たちの声に真摯に耳を傾け、どもる子どもや、僕たちに役立つ吃音研究を続けてくださいました。強い味方がなくなり、心細いのですが、論文や、書籍を今後も紹介していこうと思います。

 
第7章 吃音者の就労と職場生活


 吃音児を持つ親が、「子どもの吃音を早く治してあげたい」と思いつめる気持ちの背景には「このままでは、この子は将来、どんな仕事にも就けないのではないか」という悲観的な思いがあるに違いない。しかし私の調査によると、多くの吃音者が教師、セールスマン、医師、看護師、接客業などあらゆる仕事に就いていて、いろんな問題にぶつかりながらも自分なりに工夫、努力をして真摯に職務を遂行している。それらの事実を知ると、吃音児の将来について無用な取り越し苦労をする必要がなくなると同時に、将来を見越して今何をやっておくべきかということが明らかになってくる。本章のねらいは、そのことを意図して関連情報を提供することにある。

第1節 吃音者の職種は限られているのか

(1)私の調査結果から

 私はかつて、113名の成人吃音者(「言友会」の会員93名、非会員20名)を対象に、吃音者の就労や職場適応に関する調査をしたことがある(「吃音者の就労と職場適応について」)。その中で、吃音者がどういう職種に就いているかについて調べたが、その結果は表7-1の通りである。
 吃音者の職種といえば、あまりしゃべらなくてすむと一般的に考えられている仕事、たとえば図書館の司書やエンジニアのようなものに限られているのではないかと思われがちであるが、表7-1に見られるように実に多種多様である。一番多かったのは公務員(後で挙げる学校の教諭もその多くは公務員であるが、意図的にここには含めていない)、次いでプログラマーや設計技師などの技術者であった。なお、この表でとくに注目すべきことは、一般的に仕事を遂行する上でコミュニケーションがとても重要な役割を果たす職種であると考えられている学校の教諭、セールスなどの営業職が上位を占めているということと、総合病院の受付、医師、看護師、サービス業(接客業)など、人と直に接する仕事の分野に吃音者が進出しているということである。

表7−1吃音者の職種(水町俊郎「吃音者の就労と職場適応について」より)
       職種                          人数  %
公務員(施設職員、大学職員など)              16人 14.2
投術者(プログラマー、設計技師など)              13人 11.5
教諭(小・中・高・養護学校)                  12人 10.6
商品販売の職業(在宅セール、一般家庭訪問販売など)   11人 9.7
管理に関する職業(商品の維持・管理・機械のオペレーター) 10人 8.8
工業製造(メッキ工、機械加工など)                 9人 8.0
機械の組み立て・修理                       7人 6.2
会計事務                                 5人 4.4
建築業・建設機械の運転                       5人 4.4
自営業(米穀商、卸売業など)                    5人 4.4
一般事務(受付など)                          4人 3.5
医療や保険に関する職業(医師、看護師など)          4人 3.5
サービス業(喫茶店、食堂など)                   3人 2.7
作業的事務員(タイピスト、キーパンチャーなど)         2人 1.8
印刷・製本                             2人 1.8
公益供給の職業(ガス、水道など)               1人 0.9
裁断・縫製                             1人 0.9
食料品製造                             1人 0.9
単純労働                                 1人 0.9
警備員                                 1人 0.9

 ところでこれまで、吃音者がどのような仕事に就いているかということを話題にする場合、たとえば、「カンタベリー大寺院の百代目の大司教、ミカエル・ラムジーは吃音者であった」とか、「吃音者でありながらオークションの進行係をしている者もいる」、「弁護士やアナウンサーもいる」というように特例的な言い方がなされてきた。しかし本調査の結果から、身近にも吃音の問題を持ちつつも、実に多様な仕事に就いている者がいるということが明らかとなった。

 この事実は、就職の問題にからんで将来に対して悲観的な展望しか持てないでいる吃音児の両親や若い吃音者にとっては、今後に大きな期待を抱かせる明るい情報であるに違いない。過日、私のもとに高校2年生の男子が、高校卒業後に就職を希望しているけれども、吃音のためにどういう方向に進んでいったらいいか迷っているということで母親とともに相談に来た。彼としばらく話をした後、表7-1を見せた。彼はその表を見た瞬間、目を丸くして、「ホー!」、「ホー!」と二度続けて驚嘆の声を上げた。彼はそのとき、吃音であるという理由で自分の将来を非常に悲観的に考えていたことが必ずしも正しくないということに気づかされたのである。そういう意味では、表7-1が吃音者あるいはその関係者に与えるインパクトはきわめて大きいといえよう。

(2)吃音者のセルフヘルプ・グループの情報から

 外国からの情報も含めて、吃音者の就労や職場生活に関する資料はきわめて少ない。そこで私は、そのことに関する情報を、吃音者のセルフヘルプ・グループに参加している成人吃音者たちの生の声を聞き出すことを通して収集しようと考え、「大阪スタタリングプロジェクト」(旧、「大阪言友会」)の例会(大阪吃音教室)で「職場での吃音について考える」というテーマで約2時間議論をしてもらった。仕事をしていく上でぶつかっている問題や、それに対する対策など、実に興味のある議論が展開されたが、ここではその中で吃音者の職種に関する部分のみを紹介することにする。

 この日は「職場での吃音について考える」というテーマで議論するということで、まずはじめに、参加者が順に自分の職業について紹介し合った。当日参加した18名の職種は以下の通りである。

 「スーパーの仕分け作業、ビル管理、団体職員、石材加工業、医学部学生、公務員、CATVカメラマン、配送センターの荷役作業、土木設計、介護職員、エンジニア、作業所所長、会社経営、主夫、営業職、専門学校講師、予備校講師、大学講師」

 次に、これまで「大阪スタタリングプロジェクト」の例会(大阪吃音教室)に参加したことのある人がどんな職業の人であったかについてみんなで出し合ったが、その結果は以下の通りである。

 「消防士、海上保安庁、税務署員、飛行機整備士、自動車修理工、運転手、図書館司書、刑務官、裁判所、教育庁、JR職員、製薬会社研究員、古本屋店主、居酒屋店主、レストラン・オーナー、飲食店従業員、ピアニスト、僧侶、結婚式司会業、保険外交員、医師、看護師、レントゲン技師、小・中・高・大学の教員、スピーチセラピスト、ことばの教室教師、幼稚園教員、保育士、保母」

 以上のように、大阪という限られた一つの地域のセルフヘルプ・グループの例会(大阪吃音教室)の参加者に限定しただけでも、吃音者が実に多種多様な職種に就いているし、司会業、保険外交員、接客業、学校の教員、医療関係者など、人とのコミュニケーションがとくに重要な役割を果たすと考えられる仕事に従事していることがここでも確認することができた。
 
 また、吃音者のセルフヘルプ・グループの別の組織である「全国言友会連絡協議会」(全言連)では、現在、ホームページ上で各地の「言友会」の会員に呼びかけて「職業データベース」を作成するために職業アンケートを実施中である。現時点で約120名の会員からの応答があって、いろんな職種の吃音者の体験談等が掲載されている。そのうちに最終的に結果がまとめられるだろうが、私は、吃音者の職種についてのみならず、吃音者と職業に関するこれまでにない幅広い情報が提供されるものと期待している。

『治すことにこだわらない、吃音とのつき合い方』ナカニシヤ出版
水町俊郎(愛媛大学教授)・伊藤伸二   2005年

日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2016年9月4日

僕が起草文を書いた 吃音者宣言

 もう、40年以上も前に書いた文章ですが、そのころの社会状況も、吃音治療の現実も全く変わっていません。僕の考え方も全く変わっていません。この変わらないことをどう考えればいいのか。考え方は変わっていませんが、当時よりも考え方は広がり、深まり、確信はさらにつよくなっています。

吃音者宣言

 私たちは、長い間、どもりを隠し続けてきた。「どもりは悪いもの、劣ったもの」という社会通念の中で、どもりを嘆き、恐れ、人にどもりであることを知られたくない一心で口を開くことを避けてきた。
「どもりは努力すれば治るもの、治すべきもの」と考えられ、「どもらずに話したい」という、吃音者の切実な願いの中で、ある人は職を捨て、生活を犠牲にしてまでさまざまな治すこころみに人生をかけた。

 しかし、どもりを治そうとする努力は、古今東西の治療家・研究者・教育者などの協力にもかわわらず、充分にむくわれることはなかった。それどころか、自らのことばに嫌悪し、自らの存在への不信を生み、深い悩みの淵へと落ちこんでいった。また、いつか治るという期待と、どもりさえ治ればすべてが解決するという自分自身への甘えから、私たちは人生の出発(たびだち)を遅らせてきた。

 私たちは知っている。どもりを治すことに執着するあまり悩みを深めている吃音者がいることを。その一方、どもりながら明るく前向きに生きている吃音者も多くいる事実を。
 そして、言友会10年の活動の中からも、明るくよりよく生きる吃音者は育ってきた。
 全国の仲間たち、どもりだからと自分をさげすむことはやめよう。どもりが治ってからの人生を夢みるより、人としての責務を怠っている自分を恥じよう。そして、どもりだからと自分の可能性を閉ざしている硬い殻を打ち破ろう。
 
その第一歩として、私たちはまず自らが吃音者であること、また、どもりを持ったままの生き方を確立することを、社会にも自らにも宣言することを決意した。
 どもりで悩んできた私たちは、人に受け入れられないことのつらさを知っている。すべての人が尊重され、個性と能力を発揮して生きることのできる社会の実現こそ私たちの願いである。そして、私たちはこれまでの苦しみを過去のものとして忘れ去ることなく、よりよい社会を実現するために活かしていきたい。

 吃音者宣言、それは、どもりながらもたくましく生き、すべての人びとと連帯していこうという私たち吃音者の叫びであり、願いであり、自らへの決意である。
 私たちは今こそ、私たちが吃音者であることをここに宣言する。
   全国言友会連絡協議会
昭和51年5月1日言友会創立10周年記念大会にて採択

『吃音者宣言 言友会運動十年』たいまつ社 1976年

日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2016年9月4日

僕がどもりにあれほど悩んだのは


吃音否定のナラティヴ(物語)が、どもる人を悩ませる


 僕が吃音に深く悩んだ時代、なぜあんなに悩み、「吃音を治さなければ」と、治すことや改善することにこだわったのか。大きくは、次のふたつの要素があります。

  峙媛擦藁瑤辰拭苦しい、悲しいもの」だとするナラティヴ(物語)を小学2年生の秋からもって、それを、からかいや、どもって失敗した経験などで強化していった。
◆屬匹發蠅麓さなければならないもの、改善のための努力をすべきもの、努力すれば治せる」というドミナント・ストーリー(支配的な物語)しかなかった。

 当時の民間吃音矯正所はこぞって、吃音の悲劇を書き立てました。私が中学2年生の時に手にした浜本正之著『20日間で必ず治る、どもりの正しい治し方』(文芸社)には、「吃音の悲劇」とのタイトルで吃音に悩んで自殺した人、金閣寺に放火した若い僧侶(林養賢)などの話が紹介され、どもったままでは大変なことになると書き立てていました。まさに、この「壺」を買わなければ悲劇が起こるとする、「霊感商法」のようです。そのようにして、僕たちを吃音治療へと誘ったのです。しかし、本を読んで自宅でいくら練習しても効果がありません。直接、民間吃音矯正所に行って治したいと、ますます、治ることへの憧れを募らせました。

 吃音の否定的なナラティヴと、吃音は治るとの悪魔のささやきは、僕をがんじがらめにしました。「どもりだから〜できない」「どもりが治ってから〜しよう」と、アドラー心理学でいう劣等コンプレックスに陥り、人生の課題である、仕事・人間関係・愛から逃げました。勉強をしない、友達のいない、孤独な人生を21歳まで生きました。
 2年間浪人し、やっと東京の大学に合格しましたが、東京の大学に行きたかったわけではなく、ただ、東京にある東京正生学院に行ってどもりを治したかったのです。それが、東京への大学進学の理由のすべてでした。

 小学生の時代から、週刊誌、新聞などで知っていた東京正生学院の門を前にしたとき、これで僕の人生は大きく変わると本気で思いました。何度も書いていますが、1か月、朝から深夜まで、必死の努力を続けました。でも、僕を含めて300人ほどの全員が治りませんでした。「必ず治る」と大きく宣伝する、当時、最も信頼できそうな、大きな吃音矯正所で全員治らなかったのだからと、治すことへのあきらめがつきました。

 1965年の秋、どもる人のセルフヘルプグループ言友会を創立しました。それからの僕の活動はいろんなところに書いているので省略しますが、僕が取り組んだのは、「どもりは悪い、劣った、恥ずかしいものだ」「どもりが治らない限り、楽しい有意義な人生はない」との、ドミナント・ストーリー(支配的な物語)を、どもる僕たちが幸せに、楽しく生きられるように、これまでとは違うオルタナティヴ・ストーリー(別の物語)に変えていくことでした。言友会創立10年目に「吃音者宣言」を起草し、言友会創立10年の節目の全国大会で採択しました。

 それ以降の40年は、書き換えたオルタナティヴ・ストーリーを厚いものする歴史でした。そのために、精神医学、臨床心理学、社会心理学、演劇と様々な分野から学んで実践してきました。吃音親子サマーキャンプなどで出会う子どもたちも、吃音とともに豊かに生きるようになりました。50年をかけてやっと「吃音の肯定的な物語」が定着してきたと考えていました。

 ところが、2013年、北海道の看護師が、勤め先の病院で吃音が理解されなかったとして、自殺したことによって、状況は大きく変わり始めます。50年前と違う点は、「本人の努力で吃音を治す」に加えて、「社会の吃音理解」を問題にしたことです。吃音の理解を求めるのは、当然のことですが、「社会の理解、社会の支援がなければ、私たちはより良く生きられない」と、必要以上に強調しすぎると、どもる人たちが、これまで、苦労しながらサバイバルしてきた、生きる力が弱められる恐れがあります。

 大勢のどもる人の悩みのナラティヴと、多くの人との対話を続け、より良く生きたいとの願いから生まれたのが「吃音者宣言」です。その後の「吃音とともに豊かに生きる」は、大勢の人の体験と、50年という年月をかけてやっとたどり着いた「吃音肯定の物語」です。その宝とも言うべきものを、「吃音を治す、改善する」「社会の理解、社会の支援」を声高に叫び始めたどもる人のセルフヘルプグループ言友会は投げ捨てたように思えます。

 20年以上も前に言友会から離脱したのですから、仏教に末法思想があるように、僕たちが築いたものは、影響を失ったのでしょう。どもる人のセルフヘルプグループである、NPO法人大阪スタタリングプロジェクトの僕たちとは、同じどもる人のグループでも、まったく違う次元に行ってしまったかのようです。とても残念です。
 日本の敗戦後70年の苦悩の歴史と、先人のたゆまない努力で続いてきた日本の平和主義も、たったひとりの独裁者のために日本は放棄してしまうことになりました。「歴史は繰り返す」の使い古されたこのことばが、妙にリアリティーをもって僕に迫って来ます。いかに少数派であっても、僕たちは発言しなければならないと強く思いました。

 毎日新聞の記事の功罪は大きいと思います。
 吃音について社会に知らせたことは「功」ですが、ネガティヴキャンペーンになってしまったことは大いなる「罪」だと、僕は考えています。かつて、僕たちのとつきあいがあり、僕の思想に共感して「吃音に悩みながらも、吃音肯定の道を歩む」記事を書いて下さっていた、朝日新聞、読売新聞、毎日新聞などの記者のみなさんは、真摯に吃音について向き合い、記事の影響を考えて、書いて下さっていました。誰に何を取材をするかで、同じ吃音でもこんなに違うものになるとは、驚きです。

 吃音への無理解や差別的なことがあれば、その都度、本人が自分のことばで吃音について説明し、理解を求めればいいのですが、「間違った理解」が広がると、その修正はとても個人の力では難しいでしょう。「誤った理解」が広がることを僕は恐れます。

 書いても書いても書き足りませんが、いつまでも毎日新聞に関わってはおられませんので、これで終わりにします。
 水町俊郎教授の調査報告と、僕が起草文を書き、採択した「吃音者宣言」を紹介します。以前、紹介したかもしれませんが、今回、改めて読み直したいと思いました。

日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2016年9月4日 

毎日新聞の吃音の記事への疑問

歴史は繰り返すのか

 どもる人は、人口の0.8%だと言われています。この数字も怪しいのですが、かなりの数になります。しかし、セルフヘルプグループに参加する人や、ことばの教室に通う子ども、病院や吃音研究機関を訪れる人は、ごくごくわずかです。圧倒的多数の人が、吃音に悩みながらも、どこにも相談に行かず、吃音と共にそれなりの人生を送っています。

 1974年、3か月かけて全国吃音巡回相談会を全国都道府県38会場で開いたとき、吃音に悩む人だけでなく、大勢の、吃音と共に豊かに生きている人と出会ったことが、この相談会の僕の最大の収穫でした。「どもっていれば、吃音に困り、悩んでいるはずだ」と、僕自身が深く悩んだ経験からもっていた、先入観、固定観念が壊された経験でした。その後の言友会活動でも、どもる人たちは、様々な仕事に就いて、それなりの人生を送っていました。現に、僕が全国言友会連絡協議会の会長をしてるころ、愛媛大学の水町俊郎教授の123名の「吃音者の就労実態」の調査報告でもそれは明らかになりました。吃音と共に豊かに生きている人は、とても多いのです。

 ところが、今回の毎日新聞の記事は、「差別を受けた6割」「理解不十分7割」の小見出しが踊り、自由記述では「生まれ変わりたい」「叱責や無視される日々」「対人恐怖症になった」など、どもる人の悩み、苦労だけがクローズアップされています。これでは、吃音のネガティヴキャンペーンです。

 調査は、言友会というひとつの団体に限られています。これが僕たちの仲間、NPO法人大阪スタタリングプロジェクトの会員に対する調査なら、調査結果は大きく違ってくるだろうと思います。悩みや困難があっても、仮に社会が僕たちが望むような理解のし方をしてくれなくても、その中で生き抜くために、精神医学、臨床心理学、教育学など、様々なことを、大阪吃音教室で学び続けているからです。以前は、吃音を否定的に考えていたのが、肯定的にとらえ直して、就職活動に活路を見いだした人たちがたくさんいます。どもる人のグループがどんな理念で活動し、何を学び続けているかによって現実は大きく違ってきます。それは時代が違うということではないでしょう。後で、水町俊郎教授の調査結果も、このブログで紹介したいと思っています。

 1000人いるかいないかの、どもる人のセルフヘルプグループ言友会の80人ほどの声の、それもアンケート調査をしただけで、どもる人の多くがこのように吃音に悩み、「差別を受けている」と印象づけるような今回の報道は、どもりながら豊かに生きている人の情報を切って捨てることになります。担当の毎日新聞記者に、どもりながら元気で生きているどもる子どもやどもる人がいることも知ってほしいと、書籍や、DVD、資料をたくさん添えて、僕たちのことも紹介してほしいとお願いしましたが、全く取り上げてはいただけませんでした。資料を受け取ったという連絡すらありませんでした。

 吃音のために生きづらさを抱えている人がいることを紹介することが悪いのではありません。差別を受けている人がいるのも事実でしょう。しかし、どのような差別なのか明らかではありません。僕は小学2年生の時、楽しみにしていた学芸会のセリフの多い役から外されました。それは教師の不当な差別だと、ずっと思っていました。それから僕は吃音に強い劣等感をもって悩み始めたのですが、15年ほど前に、平井雷太さんの「いじめられっ子のひとりごと」という詩に出会ってから「これは教師の教育的な配慮」だったかもしれないと思い始めました。「差別は、その人がそう感じれば差別だ」との考えもあり、ある意味、正しいのかもしれません。しかし、その人が吃音のことを知らなかったから、あるいは、僕が経験したことでは、自分がどもりたくないと思い、隠していたから理解されなかったこともあったのではないかと、僕たちの大阪吃音教室では話し合っています。「差別を受けた6割」はあまりにも強い印象を受けます。

 専門家のコメントで、「吃音者の4〜5割が、社会不安障害を抱えている」と言われても、どもる人のほとんどは、吃音の相談治療機関を訪れません。吃音に深く悩み、吃音のために人生が大きく影響を受けている人が、大学や病院、研究機関を訪れます。そのような悩みの深い人たちを対象としたデータ、数字であり、現実とは大きく離れています。
 また、吃音の原因が脳にあるとは、ずいぶん前から言われていますが、確定している訳ではないし、将来も確定しないでしょう。吃音は原因が未だに解明されていないが定説です。日本でも80万人程度のどもる人がいるとしたら、それらをすべて調べることなど不可能です。吃音と分からない程度でも深く悩んでいる人がいます。一方、どもっていても平気な人がいます。吃音ほど、ひとりひとり違うものはないのです。数値で測れないのが吃音なのです。

 また、「社会が吃音を障害と認識することが大切」だは、僕たちとずいぶんと考え方が違います。話しことばの特徴を、障害だと認識したところから吃音の問題が始まると考える僕のような人間もいます。障害と認識してもらって、救われる人もいるだろうと思いますが、それを好まない人も多いでしょう。僕たちの多くの仲間は障害だとは考えていません。広く吃音の世界を考えるとかえってマイナスになると思います。先に紹介した吃音親子サマーキャンプに参加した小学6年生や中学1年生が言うように、吃音については、いろんな考え方をする人がいることも、公正に、両方の記事を掲載してほしいものです。

 毎日新聞の記事では、吃音のマイナスの側面だけが強調され、誤った「吃音理解」が進むのではないかと危惧します。吃音が理解されない現実があれば、直接その人が、吃音について説明し、理解を求めればいい。しかし、誤った理解のされ方をすると、それを修正するのは大変なことです。僕たちが50年かかったのですから。やつと、吃音に悩む人もいるが、吃音とともに豊かに生きている人がいるとの認識がひろがったところに、今回の毎日新聞のネガティヴキャンペーンはどのような影響をあたえるのでしょうか。吃音のネガティヴな面だけを強調することの大きな弊害については、次回書きます。
 僕たちの考え、意見は少数であっても、発信していきます。

 日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2016/09/03

 

吃音悲劇のナラティヴは繰り返すのか


 毎日新聞の記事への大きな違和感は、吃音親子サマーキャンプに参加している、小学6年生、中学1年生の話し合いで分かりました。吃音を否定せず、吃音肯定のナラティヴ(物語)を育てようとしている、僕の考え方を共有していることばの教室であれば、小学3年生ごろから、キャンプでの話し合いに共通した意見がでてくるだろうと思います。現実にそのような学校の子どもの話を話を聞きました。

 以前、北海道のことばの教室の全道組織の事務局から7月の特別吃音研修と9月の全道大会での記念講演の講演記録を掲載したスタタリングナウの巻頭に書いた文を紹介します。


  吃音悲劇の物語
 
    日本吃音臨床研究会 代表 伊藤伸二

 『3週間で必ず全治する−ドモリの正しい治し方』    (浜本正之・日本文芸社1958年)
 中学2年の夏休みの前に、この本を手に入れた時の胸の高鳴りは忘れない。夏休みに1か月、この本の通りに練習すれば僕のどもりは治り、新学期には別人になって学校へ行けると心底思った。
 本の第1部の「ドモリの悲劇」の章で、どもりが原因で自殺をした人、国宝・金閣寺の放火事件などを紹介し、浜本さんはこう呼びかけた。

 「私たちは何とかしてこの悲劇を防がねばなりません。その方法はただ一つ。ドモリをなくす事です。ドモリの皆さん。ドモリ矯正のために、勇気を奮いおこして戦って下さい。社会の皆さん。ドモリの人々の矯正への戦いに、指導と援助を与えて下さい。ドモリは、二十日で必ずなおります」

 浜本正之さんが、必ず治ると提唱する「まず態度 口を開いて息吸って 母音をつけて軽く言うこと」の言語訓練法は、バリー・ギターの「ゆっくり、そっと、やわらかく」の統合的アプローチの流暢性形成技法の軟起声、構音器官の軽い接触とほとんど同じだ。1903年の伊沢修二の「ゆっくり」から続く言語訓練は、世界中のほとんどの人が失敗してきた、100年以上の歴史がある。

 私は夏休み中の30日間必死で練習したが、まったく効果がなく、秋には練習をやめた。しかし、「ドモリの悲劇」の物語は強烈に残り、「吃音が治らないと僕の人生はない」と思いつめた。吃音悲劇の物語によって私は21歳まで苦しむことになる。

 21歳の時、再び「ゆっくり、そっと、やわらかく」の言語訓練を、東京正生学院という「どもりは必ず治る」と宣伝する民間吃音矯正所ですることになる。この時は、本ではなく、直接指導を受けるのだから、治ると思った。しかし、私を含めて300人全員が治らなかった。「ゆっくり、そっと、やわらかく」は、吃音矯正所の中ではできても、日常の生活の中では誰もできなかった。1ヶ月、朝から晩まで一所懸命取り組んだが、結果は中学2年生の夏と同じだった。

 どもりが治ることをあきらめ、どもりながら生きることを決め、どもる人のセルフヘルプグループ言友会を創立した。「吃音を治す」「吃音を治す努力の否定」から、「吃音者宣言」に至る10年は、なぜどもる人は吃音に悩むのかなどを考え抜く、「吃音治療」から「吃音哲学」へ転換の歴史だったと言えるだろう。私たちの方向転換に、「ひどくどもる人は決して有意義な人生は送れない。吃音を治す努力は否定すべきではない」と、自分自身がかなりどもる大学教授から強く批判された。現在でも、「吃音への理解がない社会で、どもっても大丈夫と言うのは、セーフティーネットのない断崖絶壁で、橋を渡れというようなものだ」と、吃音に悩み、治したいと願う人には吃音症状の軽減をはかるべきだと批判を受けている。

 そのような中で、北海道・札幌で、どもる人のセルフヘルプグループのリーダーが、吃音が理解されないからと、自らの命を絶った。すると、浜本正之さんの「ドモリの悲劇」の再来のように、「やはりどもりは治すべき、少しでも症状の軽減を図るべき」だとの大合唱が始まった。

 その北海道のことばの教室の全道組織の事務局から7月の特別吃音研修と9月の全道大会での記念講演の依頼があった。少しでも症状の軽減に努力しようの動きが高まっていると想像していただけに、この依頼に驚くと同時にうれしかった。

 私は50年をかけて、「吃音を治す、改善する」動きに反対し、吃音者宣言文で、明るく前向きに生きる人が育ってきたと、どもる人の生きる力を紹介してきた。吃音肯定が定着したと考えていただけに、最近の「治す、症状の軽減」路線は、100年前に逆戻りした感じがして悔しい。

 浜本さんは「吃音悲劇の物語」を語り、吃音と戦うことをすすめ、私は「吃音肯定の物語」を語り、吃音と戦うなとすすめる。北海道の記念講演では、これまでの歴史を踏まえて、吃音をレジリエンスの視点からとらえることを話した。
 また、私の新たな歩みが始まった。 「スタタリング・ナウ」2015年11月  NO.255

日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2016年9月2日
Archives
livedoor プロフィール

kituon

QRコード(携帯電話用)
QRコード