伊藤伸二の吃音(どもり)相談室

「どもり」の語り部・伊藤伸二(日本吃音臨床研究会代表)が、吃音(どもり)について語ります。

2016年09月

吃音は共に生きていくことが出来るようになっている


 櫛谷宗則さんが書いて下さった「いのちの吃音」を読んで、ふと、吃音がいとおしくなった。人類の歴史の中に、少なくとも紀元前300年の時代から、吃音については記述があり、今までたくさんの人が吃音とともに生きてきた。「吃音を治す、改善する」の世界の歴史は、1903年の楽石社からで、120年の歴史しかない。「英国王のスピーチ」のジョージ6世の時代は、1920年のころだ。そして、世界のどの地域でも、人口の0.8パーセントはどもる人がいるという。人間にとって、吃音はあってはならないものではなく、自然にそこにあるものではないか。
 「いのちの吃音」に、「伊藤さんの人生は吃音に守られ導かれた人生だったと思う」とある。心底そうだと僕は思う。この一年僕はかなりどもるようになった。人前に立つ講演などでは、それほどでもないのだが、日常の電話、雑談では、苦笑いするほど、ひどくどもるようになった。講演や講義でかなり話す機会の多い僕でもそうなのだ。つくづく、「吃音は治らない」ものだと思う。
 明日は、落語家の桂文福さんと会う。僕のところにかけて下さる電話で、文福さんもよくどもっている。そのあたりのことを明日、ゆっくり聞いてみようと思う。43歳で世界大会を開いたころ、僕は少なくとも人前での講演などでは、ほとんどどもらなくなった。このまま治ってしまうのではないかと心配したが、その心配はまったくなくなった。今は、どもることを楽しんでいる。

 基本設定の吃音

       日本吃音臨床研究会 伊藤伸二

 人間は、もともと、吃音と共に生きていくことができるように、基本設定されている。その基本設定を自分にとって不都合なものだとして、無理に変えようとすることによって、誤作動が起こり、さまざまな新たな人生の問題が生じるのではないか。もともとも備わっている、基本設定を信じることが、いのちとしての吃音を生きることだ。

 3歳からどもり始めた私は、自然に備わっていた吃音と共に生きる力で、悩むことなく、元気にどもっていた。それが私のことばだから。それが、小学2年の秋、担任教師に、学芸会でセリフのある役を外されたことで、吃音と自分とを切り離し、不都合なものとして排除しようとした。基本設定を変えようとした。どもりたくないために、話さなければならない場、話したい場から逃げた。すると、私のからだの中のどもりが反乱し始め、吃音と共に生きる力がどんどん失われ、悩みの深い吃音の人生を生きることになってしまった。

 1965年の21歳の夏、吃音に真剣に向き合い始めてからは、吃音について、常に「自分の場合はどうか」と自分に引き寄せて考えてきた。アメリカ言語病理学だけでなく、臨床心理学、社会心理学、精神医学、演劇など、様々な領域から学んだが、それ以上に、今、現実に深く吃音に悩み、身動きがとれなくなっている人、悩みから解放された人たちと当事者研究を続けてきた。自分の頭で考え、実際に行動して得たものだけをもとに、発言し、文章にしてきた。どもりにこだわり続け、どもりに生かされ、どもりに導かれて歩み続けた私は、いつか70歳になっていた。

 昨年6月、オランダでの第10回世界大会で、世界的に著名な小説家、デイヴィッド・ミッチェルさんと長時間対話をした。小説家らしい表現で、私と同じような体験を彼はこう語った。
 「自分自身である吃音と闘えば闘うほど相手が攻撃をしてきた。内戦に敗れて、絶望したとき、もう自分のDNAを傷つけたくない、自分の中のどもりさんに、君の存在を認めるよと言ったとき、どもりさんは、僕も君を認めるよと言ってくれた」

 「弥陀の誓願不思議にたすけられまひらせて往生をばとぐるなりと信じて、念仏まふさんと思ひたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり」
 歎異抄の、阿弥陀仏の本願力を信じて、念仏を唱える時、すでに浄土は約束されているとのことばが、ずっと頭から離れなかった。法然・親鸞・道元を通して出会った仏教と、ミッチェルさんのDNAの話と、櫛谷宗則さんが書いて下さった「いのちの吃音」が結びつき、人は吃音と共に生きるようにできているとの思いに至った。

 民族の違いを超えて吃音の発生率は人口の1%と言われる。紀元前のデモステネスの時代から現代まで、人間は悩みながらも吃音と共に生きてきた。どんなに吃音を否定しようとも、吃音と共に生きてきたことは誰も否定できない事実なのだ。言語病理学ができ、吃音が治療の対象となって、吃音の新たな問題が生まれた。本来、DNAに組み込まれている、吃音と共に生きる力を奪ったものは何か。どうすれば本来の力を取り戻すことができるかを考える時期にきている。

 吃音に対する社会の理解のなさを声高に叫び、だから、吃音は治療すべきだと主張する。一見どもる人を思う優しさの表れのようにみえるが、原因が分からず、治療法がない、話しことばの特徴を治せと求めるとは、なんと残酷なことだろう。不都合なものは、闘って挑戦して克服するという、勇ましい西洋思想ではなく、共に生きる東洋思想、とりわけ仏教思想が、吃音と相性がいい。

 「吃音は神様が私たちを選んでプレゼントしてくれたものだと考えたらいいよ」

 吃音親子サマーキャンプの子どものことばが、子どもたちに共感をもって広がっている。
 吃音への理解が少ない社会であっても、社会は敵ではなく、味方だと考え、自分と他者を大切にして誠実に日常生活を送る。どもる自分を日常生活の中に委ねて、どもりながら生きる中でこそ、吃音の理解は広がり、吃音そのものも変化していく。吃音はそのままを生きるものなのだ。
  (日本吃音臨床研究会のニューヘスレター 「スタタリングナウ」 2014.4.21  NO.236)

日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2016年9月29日

吃音に私が肯定されている

櫛谷さんの「いのちの吃音」の続きです。僕は、吃音に私が肯定されているとの櫛谷さんの考えに接し、はっとするとともに、大きくうなづきました。そして「基本設定の吃音」の文章を書きました。それは次回に紹介します。

思いはアタマの分泌物

 吃音はある。ひどく意識する私にとって、いよいよ吃音はのっぴきならない大きな存在としてある。しかしそれは縄がないのに自分で自分を縛っている世界なのだ。
 何年か前のNHKの連続ドラマで、戦争で片手を失くした漫画家が、知人の家から帰ろうと外へ出たら雨になるシーンがあった。そこで知人の奥さんが傘を差し出すが「いや、これくらい大丈夫です」といって、乗ってきた自転車で帰っていく。片手だから傘をさしては自転車に乗れない。しかし本人が手のないことをまったく何んとも思っていないので、接する人もそんなことは忘れて接している。

 私の友人もよく言葉がつっかえたり、出なかったりしているが、別に本人は何んとも思っていないので、話していて「この人は吃音者」などと思ったことはない。本人が「自分はどもりだ、恥ずかしい」と思えばこそ、まさに吃音と思うそのことによって、そこに厭うべき吃音世界が生まれ続ける。
 いや、そんなカラクリなど他人にいわれなくとも十分知っている。気にしないでいられたらどんなに楽かと、私自身が一番思っている。しかしどうしても気になるのだ。なかなか切り替えなどできない−−と思うかもしれない。
 それはまったくその通りだ。気にしまいと思えば思うほど、気になってしまう。眠ろう眠らなければと思えば思うほど、眠れなくなる。だから聖人ではないわれわれ凡人は、気になってもいいのではないだろうか。気になるままとにかく、そこで話すべきことを誠意を込めて話す。つっかえつっかえでいい、思いはどうあれとにかく、そこで話すべきこと、やるべきことをやる。気になる思いは勝手に気になるまま、日常生活を丁寧に一つ一つ生きるよう心がけ実践する。その実践があれば、思いはいろいろにありながらも、それなりに淡く消えていく。

 「思いはアタマの分泌物」と、師はよく言っておられた。自分の思いはそれまでこんな自分として生きてきたもろもろが、いま出逢っている縁と呼び合ってふっと起こっているだけで、常に流れている。執着してはいけない。吃音がひどく絶望的に思えるときもあるし、そんなでもないなと思うときもある。案外チャーミングな話し方だと思えるときが来るかもしれない。いまの思いだけが正しくて確たるもの、まして私の主人では決してない。どうにもならないとアタマで決め込むから、どうにもならなくなる。

 しかしいのちの事実は、どれだけ気になってどうにもならなくなっていようと、吃音それ自身は人の目などちっとも気にしないで堂々と吃音してる。人の脳ミソのほんのわずかな部分だけが、必死で気にしている。しかし気になるそのままで、すでに片付いている。なぜならすでに吃音は、何んともない顔をして堂々と吃音して、何んともないではないか。
 大切なのは吃音であろうとなかろうと、意識していようといまいと、もっと深い地盤から私は生きているということだ。伊藤さんも学芸会までは、そこから素直に生きていた。だから私を人とのカネアイだけの世界に投げ込むのではなく、自らのいのちの深さに立ち帰って生きる。ただ真っ直ぐ自分自身の生命力から生きる姿勢が大切だと思う。

 その生きる姿勢を伊藤さんは「吃音は生き方である」といわれるのだと思う。吃音を治してから本当の生き方ができるのではなく、吃音こそ光だ。吃音を光として生きていく生き方こそ、あらゆるものを自らのいのちとして出逢い、深めていく生き方ではないのか。その生き方のなかにはもはや吃音であるとか、ないとかは問題ではないだろう。
 生きる吃音はその人のいのちの真っ只中としてある。真っ只中としていま生きつつあるものが、どうして捕まえ規定して比べられるだろう。そのときもうそれはズレている。吃音を真っ直ぐ生きている本人の私が、どうして見る自分と見られる自分に分かれて劣っているなどと、ナマの自分の目を見るようなあり得ないことをいうだろう。「生きる」という、分別以前のたった一つのいのち現場にそんな隙間はない。ナマナマしい吃音のそこに、いま私のいのちが輝いているのではないだろうか。

 私は不思議を頂いている

 私のいのちって何だろう。この私のいのちは、私のいのちなのだろうか。
 私は両親から生まれた。しかし両親を選んだり、この世に生まれる権利を買って生まれてきたわけではない。私の思いなど届かない地盤から、無心で生まれてきたのだ。それは私だけでなく、両親もそのまた両親もそうだった。
 そうやって遡(さかのぼ)ってみると、私には地球上に初めて誕生した生命が、一度も途切れず連綿として受け継がれ生き継がれ、初めて私はいま生きている。何んといういのちの私の遥かさだろう。その思いの届かない地盤で何億年も受け継がれているいのちが、何でいま私が生きているたかが七、八十年の間だけ思い通りになるはずがあるだろうか。 いまも思い以上の地盤で心臓は動き、血液が流れ、刻々呼吸がなされている。いや俺は思い通りやっていると、思っている。そのいまの思いだって、思いを超えた力によって支えられて初めて成り立っているのだ。
 決して私は私の力で生きているのではない。太古の生命から、いま出逢っている人々、宇宙の隅々に支えられて初めて生きている。

 この不思議を見失うことで、あらゆる問題が起こる。あらゆる出来事が人間の狭い価値観のなかのいい・悪い、得だ・損だ、偉い・偉くないの世界だけになってしまう。吃音は恥ずかしいもの、治さなければいけないと。
 しかしこの不思議に立ち帰ったとき、あらゆるものの意味が変わる。日常のとるに足りない出来事−−私がいてあなたがいること、窓辺のカーテンを通して朝日が差し込んでくること、友達と喋り、時に笑い、花が咲き、風が吹く、私がそれを刻々感じている、それがかけがえのない尊いもののように光るのだ。生きるって何だろう。不思議がただにっこり自ら不思議している、そのことなのだろうか。
 不思議は不思議であるが故に、思議で分かったりつかんだりすることはできない。しかしすでにその真っ只中に誰でも彼でも生きていて、そこから落ちこぼれることも、それを追い求めることもできないのだから、安心して不思議を精一杯生きたらいい。人生は出来事のいい・悪いではなく、不思議のいのちを生きる深さにある。

 吃音に私が肯定されている



 それをこの身で実際にやるのが坐禅だ。思いで何かつかもうとせず、考えの先っぽを追いかけず、ただ骨組みと筋肉の身構えを頂いて不思議のなかに澄み浄くなる。自己の本当の中味を生きる。その行(ぎよう)を坐禅という。
 だから不思議といっても何かあやふやでつかみ処のない、たとえば超常現象とか霊感とかいった、あやしげなものなんかでは決してない。不思議ほど明らかなものはない。不思議ほど現実なものはない。だってそれはいまここ私がこうして生きている、そのことなのだから。不思議は必ず私のいまここにしかなく、いまここの具体的なあらゆるものは、不思議の現われ以外の何ものでもないからだ。
 治らないのに吃音は治すべきものだという。いまここの私を否定して、一体どこに私の人生があるだろう。私の人生はいつだってどこだって、いまここ私なのだ。それ以外生きようがないことだったら、なぜそのことで悩む必要があるだろう。そこから逃げようがないことだったら、苦しいまま真っ直ぐそれを生きる以外どんな道があるだろう。

 人はおのれの人生を生きていく上でさまざまな困難にぶつかる。それをどう受けとめて生きるか。逃げるか−しかし自分の人生から逃げ切れるのか。地獄をつとめあげるか−いやその地獄も自分のいのちではないのか。
 人は出逢った悲しみによって自分の人生をメチャクチャにすることもできるし、その悲しみによって人生をいっそう深く豊かなものにすることもできる。私の人生を生きるのは私以外にない。それを生きて向上するのも堕落するのも、この私にかかっている。たとえどこにあっても、切り拓いていけるのだ。
 伊藤さんの人生は吃音に守られ導かれた人生だったと思う。吃音は伊藤さんのいのちだ。吃音とともに豊かに生きるとは、吃音がすでに豊かなものとしてある。吃音によってどれだけ教えられ学んだことか。吃音は生きることを深く見つめさせ、考えさせてくれる。

 心臓の豊かさが私を生かしている。呼吸の豊かさが私を生かしている。吃音の豊かさのなかに私が生きている。吃音に私が肯定されている。
 だからどもってもいい。嫌だなと思っても、治したいと思ってもかまわない。たとえ思いはどうあっても、その思いのままで片付いている。どれだけ悩もうとその悩みのままで、どもっても何んともない世界をすでに頂いて生きている。その世界へ直入(じきにゆう)するのが坐禅だ。

 私はどもらない。しかし吃音の前に、誰でも同じ人として生きている。人として生きる限り、誰が悲しみや苦しみと無縁で生きていけるだろう。人はみなどこかで深い悲しみを抱いて、しかもなおよく生きようとしているのではないだろうか。その地盤で自分に語りかけるような気持ちで書いている。
 「坐禅とは自分が自分を自分することである」と、澤木興道(さわきこうどう)老師は言われた。それがそれ自身に落ちつくとき、そこに光が生まれる。青色には青い光が、赤色には赤い美しい光が生まれる。私が私に澄んでいくとき、なんともいえない透明な威儀(いいぎ)(いのちを生きる態度、振る舞い)が生まれる。吃音が吃音に落ちつくとき、吃音の喜びが生まれるのではないだろうか。
 観世音菩薩は「いま自身を現ずるを以て得度(とくど)すべき者には、即ち自身を現じて而(しか)も為(ため)に法を説く」という。吃音をもっていのちを輝かす者に、観世音菩薩はまさに吃音の身を現じて法を説き、いのちを輝かせるのだ。
 それは人の思いで「生きている」というものを超えたものが、まさに生きていることだ。そのいのちがいまここ私自身として生きている、この不思議。どこを探し求めてもそれ以上のところはないし、それ以下のところもない。だから安心してそのいのちの現場を大切に、精一杯生きる。いのちがいのちをただ生きる。悲しみがその底にあるなら、生きることはみな祈りになるだろう。
 「スタタリングナウ 癸横械狭罅廖。横娃隠看4月号

 次回はこの櫛谷さんの文章を受けて考えて書いたことを紹介します。

日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2016年9月28日

いのちの吃音


 作務衣姿の櫛谷宗則(くしや しゅうそく)さんが、大阪吃音教室に来て下さった。浄土宗のお寺だが、いろんな人が集まるお寺として有名な応典院の研修室が僕たち大阪吃音教室の会場だ。そこに、道元禅師直系の櫛谷さんが「自己の存在価値を自身の中にを見いだす」をテーマに話して下さった。33名が参加して、櫛谷さんの独特の話術に生き込まれていきました。その二日後、日曜日の午後六時半、NHKラジオの宗教の時間に、櫛谷さんの法話が放送されていました。内容は、その法話を吃音に照らしての話でした。大阪吃音教室に来てまた日が浅い人には、ちよつと難しいと感じた人も中にはいたかもしれませんが、僕たちの吃音についての考え方を熟知している人にとっては、心に響くものになつたと思います。
 また、そのときのお話は報告しますが、今回は、2014年4月、僕たちのニュースレター「スタタリングナウ」に書いて下さったものを2回に分けて紹介します。


櫛谷宗則(くしや しゅうそく)
 昭和25年、新潟県五泉市の生まれ。「宿なし興道(こうどう)」といわれた豪快な禅僧、澤木興道老師の高弟、内山興正(こうしよう)老師について19歳で出家得度(しゆつけとくど)。安(あん)泰(たい)寺(じ)に10年間安(あん)居(ご)する。老師の隠居地に近い宇治田原町の空家(耕(こう)雲(うん)庵(あん))に入り、縁ある人と坐りながら老師のもとに通う。老師遷(せん)化(げ)の後、故郷へ帰り地元などで坐禅会を主宰。大阪では谷町のプレマ・サット・サンガで、毎年9月末に坐禅法話会を続けている。
 伊藤伸二さんとは10年ほど前、朝日新聞に載った伊藤さんの紹介記事が面白かったので、「共に育つ」への原稿をお願いしたのが始まりです。

 <編著書>
『禅に聞け−澤木興道老師の言葉』『澤木興道 生きる力としてのZen』『内山興正老師 いのちの問答』『澤木興道老師のことば』『禅からのアドバイス−内山興正老師の言葉』(以上、大(だい)法(ほう)輪(りん)閣(かく))
『コトリと息がきれたら嬉しいな−榎本栄一いのち澄む』(探求社) 『共に育つ』(耕雲庵)など。

 10年前、朝日新聞のコラム「小さな新聞」で、私たちのニュースレター「スタタリング・ナウ」が紹介された記事を読んだ櫛谷さんから、ご自分が編集し出版しておられる「共に育つ」への原稿依頼があった。それまで縁のなかった仏教関係の冊子への執筆依頼が、当時、仏教に惹かれ始めていた私にとってはありがたいことだった。毎回、出版されるたびに冊子を送って下さり、私たちのニュースレターもずっと読んで下さっている。読んで、ときどき、はっとするような感想を書いて私を励まし続けて下さっていた。新潟で講演があったとき、足を延ばして五泉市のお寺にお伺いしたかったが、お互いの都合がつかず、お会いすることができなかった。昨年、大阪市天王寺区のプレマ・サット・サンガで2日間座禅会をされると知って、1日参加した。一番前に座っていた私に、休憩時間、「伊藤伸二さんですね」と声をかけて下さった。そのとき、私の顔をまっすぐに見て「あなたの目は何かと闘っている目だ」と見抜かれた。そのとき、何か文章を書いていただけないかとお願いした。その文章に添えて下さったお手紙にこう書かれていた。

 「これもご縁と思い、精一杯書かせていただきました。治す派との闘いは、対立しないで伊藤さんご自身の、吃音を光とする生き方を深めていかれること、その生活そのものが一番の道(武器)ではないかとふと思いました」


     いのちの吃音
      櫛谷 宗則


吃音を考える

吃音で悩むという、何に悩んでいるのだろう。言葉がつっかえる、出てこない、しかしそれはそんなに不都合なことではない。吃音それ自身が問題なのではない。かりに吃音はチャーミングと感じる文化だったら、吃音であることは悩みにならない、うれしいこと。
 人からの評価、人の目が気になっている。カッコ悪いと思われる、笑われる、モテない、面接で不利だなど。振り返ってみると、人は人からよく思われたいと必ず思っているのではないだろうか。自分の行為の基準がたいていそこにある。

 そしてそれは、自分の目を気にしていることだ。なぜかというと、人の目は必ず人の目であって、私の目ではないからだ。私の目がカッコ悪いと思うからこそ、人もそう思っているに違いないと思ってしまう。
 そんなふうに自分を自分で外から傍観者のように眺めて、どう見られているかを気にし、そこで良しとされる世間的な価値だけを良しとして生きているとはどういうことだろう。そこに展開されているのはいつも自分だけが可愛いと思っている私が、他と比較し競争する世界だ。勝った・負けた、得だ・損だ、偉い・偉くない、好きだ・嫌いだと、追ったり逃げたりしているなかに一日が暮れていく。そんな他との関係において外から見られた自分だけが、本当に自分なのだろうか。
 
 昔、私のいたお寺にアメリカの大きな会社の社長さんがみえたことがある。会社も順調、家庭にも恵まれているのに、何年も前から自分の人生に対して、何んともいえないさびしさ虚しさを感じるというのだ。そして、これは何でしょうと、私の師匠(内山興正(うちやまこうしよう)老師)に問いかけた。

 「あなたは自分の存在価値を自分以外の他のもの、たとえば地位とかお金持ちとか立派な家庭人とかいう他人の評価のなかにだけ求めていて、本当の自分の実物においてそれを見出していないからではありませんか。つまりいつも他との関係においてだけ生きていて、本当の自分を生きていないからさびしくなるのじゃありませんか」。

 こういわれて、その社長さんは深く思い当たるところがあったようだった。そして「自己が自己の実物を生きることが大切で、それを純粋にやるのが坐禅です」と言う師の言葉にうなずいて帰っていった。
 われわれたとえどんな世間的成功者になろうと、いずれ年老い、お金も地位も家族もみな手放して死んでいかねばならないときが必ず来る。人からよく思われることを価値として人とのカネアイだけの世界で生きてきたら、そんな着物をぜんぶ剥ぎ取られたときの自分は、どう思うだろう。裸の私はたった一人で生まれ、自分のいのちを自ら生き、たった一人裸で死んでいく。私の実物は初めから、人の評価で値段がつけられない地盤を生きていたのではないだろうか。
 人は誰でも自分の人生の当事者、主人公として生きている。それなのに自分の人生をあたかも置き換えがきくもののように錯覚し、都合の悪いことは何かのせいにして生きていることがある。しかしどれだけ他人や社会やあるいは吃音のせいにし、いまの自分から逃れて生きようとしても、自分の人生を生きるのはこの自分しかいない。たとえそれが自分で認めたくない自分の人生だったとしても、他の誰が認め、代わって生きてくれるというのだろう。

私が生きるところにすべてがある

 私は背が低い。でもそれは人と比べればこそ、なるほど低い。比べなければただこのようであるというだけで「低い」ということはない。つまり私が生きるという実際は、七十億人分の一として生きているだけではない。たとえていえば成功率五十パーセントの手術を受けた人が「私は半分生きていますが、半分死んでいます」と言ったらおかしい。当の本人にとってはすべてが生きているか、死んでいるかだ。
 だから世界のなかのちっぽけな街の片隅で、ぽつんと小さな私が生きているのではない。私が生きているところにあらゆるものが感じられる、あらゆるものが生きている。山田さんはいままで、「山田さんの生きている世界」しか生きてこなかったはずだ。加藤さんはここまで、「加藤さんが生きている世界」だけを体験してきている。私にとって私のいのちがすべてのすべてなのだ。
 いま吃音を授かって生きるなら、それがその当人にとっていのちのすべてだ。それぎりとしてこの身にあるなら、どうして劣っているとか欠けているとかいって比較できるものであるだろう。そこに吃音などない。ただそのような喋り方をする者が当り前に喋っているだけだ。
 道のコンクリートの割れ目から雑草が生え、小さな花をつけていることがある。こんな排気ガスが多くて人にも踏みつけられそうな場所で、かわいそうだなと思うかもしれない。しかしそれは傍観者の言葉だ。当の本人にとっては、その場がいのちのすべてなのだ。すべてだから、いい悪いなどいっている浮ついた隙間はない。ただその場に安らい、精一杯咲いている。その生きる姿は、可憐で美しい。
 それを傍観者のように外から眺め、人と比較するとき吃音が生まれる。伊藤伸二さんも小学二年の学芸会でセリフのある役から外されるまでは、伸び伸び明るくどもっていた。吃音などなかった。吃音を忘れたところで、吃音とともに豊かに生きていた。それが吃音は恥ずかしいものと意識したとたん、そこに吃音が生まれた。
 つづく

日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2016年9月27日

温かく、幸せな 吃音親子サマーキャンプの打上会

サマキャン打ち上げ3サマキャン打ち上げ2

 吃音親子サマーキャンプ打ち上げ
 2016年9月17日(土)17:00〜20:00
 13名参加

 吃音親子サマーキャンプは、7月の劇の稽古、上演のための事前レッスンに始まり、9月の打ち上げで終わります。2ヶ月のロングランです。スタッフ全員に、キャンプのお礼と打ち上げの案内を送りますが、「一度は、参加したいと思っているが、遠くて残念…」と書いて下さる人が多いです。沖縄や、鹿児島などの九州勢から関東地方から参加するスタッフからです。

今回、大阪、兵庫を中心に13名が集まりました。岡山からかけつけてくれた人もいます。いつもの中国料理店で食事をしなかがら、というより食事もそこそこに一人一人が自分にとってのキャンプを振り返ります。自分の担当する場面以外の子どものようすなどが聞けて、とても楽しい、幸せな時間です。子どもたちを、子どもの物語に真剣に向き合っているからこそ、語れる子どもたちのエビソード。こんな仲間たちだから、参加者全員が、いい雰囲気の、温かいキャンプと、口々に言うのだと思います。いくつかの発言を紹介します。

〇〇さん
初めての参加。サマーキャンプの他に、演劇の事前レッスン、島根での全難言全国大会、吃音講習会に参加し、濃い時間を過ごした。本音が言える仲間だと思った。

 サマーキャンプで心に残っているのは、小6・中1の話し合い。自己紹介をしようということになったとき、I君が「自分のいいところを言おう」と声をかけた。すると、「普通、そういうことは言わんやろ」という声が上がったが、「でも、ここはな、言っていいところなんやで」となり、みんなひとりひとりが自分のいいところ、得意なことなどを話していった。こんなことが言える雰囲気がすてきだった。

 S君が発表したくて手を挙げるが、先生は当ててくれないという不満を出した。これに対して、つい教師サイドの発言をしたけれど、教師ではなく、人として素で答えられたらよかったなと思っている。毎日新聞の「吃音で差別されている人6割」の記事の中での、吃音改善と吃音克服をごっちゃにしているとの意見が出され、その違いについてきちんと説明し、それに対して抗議というか、意見を投書しようという話になった。小学生が投書するから意味があるだうという子どもたちにびっくりし、すごいなと思った。劇でも、ブロックがひどくてせりふがいえない子に対して、みんながやさしく待っていた。Wさんの丁寧なかかわりもあった。学校に戻って、ことばの教室の同僚の教師にこれらの話をすると、「吃音の子は、かしこいからね」とあっさり言われてしまい、がっかり。子どもたちが真剣に考え、話し合っているからできることなのに。

〇〇さん
  サマーキャンプを卒業し、今回初めてスタッフとして参加した。一番よかったのは、スタッフ会議に参加できたこと。今までは、年の近い人とばかりで、吃音の話をしてきたけれど、年のかなり違うスタッフと吃音の話ができてよかった。また、高校3年生の初参加の子から、僕が今大学で目指している、言語聴覚士のことを聞かれ、相談にのって、いろいろ話した。僕も、高校3年のとき、サマーキャンプに参加して、将来言語聴覚士になろうという気持ちになった。彼女と、話をして、改めて、言語聴覚士になりたいという気持ちが強くなった。彼女は吃音に悩んでいながら、サマーキャンプ直前まで、親にも吃音の話をしてこなかったという。親にすら話せない子がいるとしたら、そういう人たちの力になりたいと思った。

〇〇さん
  年々、3日間が楽になってきている。サマキャン卒業生がスタッフとして参加してくれていることが関係している。たとえば、ここにいるN君も、小学2年生のときは、言うこときかんかったし、蛍光灯も割ったし。なのに、今、スタッフとしてがんばってくれていた。沖縄、兵庫からの参加者が比較的多かった。また、初参加の人が初めは不安そうにしているが、すぐに打ち解けているのが印象的だ。終わってから、どもる人や保護者の集まりがあったが、そこで、参加者の感想を聞くことができた。3歳の妹が参加していたが、どもる子どもの妹として参加していたが、本人も、どもる子だった。母親は、妹もどもることをなかなか受け入れることができなかったが、キャンプで、兄弟姉妹を世話してくれる女子のスタッフの姿を見て、こういう女の子になってくれたらいいんだと思え、受け入れることができるよになったと話していた。来年は、どもる子どもとしてきょうだいで参加するだろう。

〇〇さん
  芝居の練習は、これまでは僕が中心に指導していたが、Fさん、Tさんが積極的に関わってくれたことがうれしかった。事前レッスンに参加している人が4人だった。Fさんが、ウォーミングアップですることや歌詞カードを準備してくれて、リードしてくれた。事前レッスンには参加していないけれど、僕たちが竹内敏晴さんから受けてきた、からだとことばのレッスンができる人が、スタッフの中には配置されている。事前レッスンに参加していなくても、されらの人と一緒にできるのがありがたい。
 
〇〇さん
  ほめられたら、子どもももちろん大人もうれしい。思ったことは伝えないといけない。この二つを強く思った。Nさんに何かを頼んだとき、「はい、わかりました」と言ってすぐに動いてくれた。初々しくて、そのことをNさんの母に伝えることができたら、母が喜んでいた。思ったことは伝えなくてはいけないと思ったことだ。スタッフの部屋に、Kさんが来て、話をしていた。それに対して、若いスタッフがしっかり聞いて、レスポンスし、アドバイスしていた。聞いていると、「そんな、うまくいくはずがない」と思えるようなことだったけれど、Kさんにとっては、しっかり受け止めてもらえたという経験にはなっていた。小1から知っているが、成長しているのが分かってうれしかった。劇は、Kさんがいてくれて安心できた。M君とYさんの2人の息がぴったりあっていて、ほほえましかった。スタッフミーティングのときに聞いたYさんと全く違う姿だった。最後、来年の吃音講習会のことを宣伝したのを聞いて、「私も参加していいのかな」と言っていた。行きたいという積極的な気持ちになってくれたとうれしかった。劇の役は、自分がしたいという役をしてもらうのが一番。その調整ではなく、ダブルキャストやトリプルキャストになったとき、どう劇の場面を工夫していくか、調整していくか、それを考えた方がいい。それを考えるのも楽しいようだ。

〇〇さん
  初日の深夜に到着し、実質2日目から参加した。劇の中で、僕も役に立ちたいなあと思うけれど、事前レッスンに参加していないので、なかなか動けない。来年は休みをとって、ぜひ事前レッスンから参加したい。役を決めるとき、〇君に、「やってみたら」と背中を押してみた。初めはしぶっていたが、やりますと言い、後は見事に、2つの役をこなしていた。すごいと思った。ウォークラリーは、去年、道を間違えたので、不安だったが、みんなに確認しながら行けて、よかった。僕にとっては、なくてはならない夏のイベント。
 
〇〇さん
  若い人が増えてきた。卒業生スタッフは、キャンプの段取りが分かっているから、やりやすい。劇で、ブロックのきつい子に、Wさんが丁寧にかかわっていた。無理じゃないかと思われるくらいきつかったのに、だんだん出るようになり、本番では、せりふが言えていた。不思議で、マジックのようだった。来年、キャンプのドキュメンタリーを撮りたいと思っている。ぜひ、記録として残したい。

〇〇さん
  劇で、与えられたものをするのではなく、自分たちでいいものにしようという気持ちがあって、提案したり、工夫したりしていたのがよかった。アドリブも考えていた。そんな前向きに考える場にいることができてよかった。

〇〇さん
  子どもの話し合いに初めて参加した。小2で、2人だった。まねされたとき、どう伝えるかという話題になった。Y君は、そういうことがあって、自分で先生に言ったと話していたが、D君は、まねされたことはないと言っていた。Y君は、小1のとき、まねされたことがあって、自分で話したそうだ。先生に言うのが一番早いと判断したからだとのこと。その話を聞いていたD君が、2日目に、「実は、僕も、まねされたことがあって…」と話し始めた。劇では、コマドリの役をしたいと言った子は、バレーをしていたからで、それが生かせると思ったから。自分の得意なことをみんなの前で披露したいというのは、いいなあと思った。最後のふりかえりで、どもる子どもの妹の、兄を心配していて、まくいったことを自分のことのように、安心して喜んでいたという作文に感動した。そんなことを考えていたのかと胸が熱くなった。どもる子ども本人だけでなく、きょうだいで参加することの意義を思った。

〇〇さん
  きょうだいグループを担当している。今回、新しいスタッフを叱ってしまった。お風呂に入るとき、子どもたちだけで、入らせていると知り、「なにかあったら、どうするの。今、みんなは話し合いの時間で、私たちきょうだいグループは、お風呂に入っているけれど、プロクラム中なんだから」と。ただ、遊ばせているだけだと思っていたスタッフがいたけれど、そうではないことを知ってもらえてよかった。親が安心して、学習会や話し合いに参加できるよう、きょうだいを見ていくことで、私自身も、きょうだいグループの意義がようやく分かってきた。バレーをしてきた子に、コマドリをしたいと言ったとき、「やったら」とすめた。得意なことをみんなの前で披露したいと思い、それができる場なんだと思った。

〇〇さん
  ゆっくりキャンプを味わうことができた。劇も話が分かりやすかったので、パートには分けず、みんなで通して練習できた。二人の高校生が、普段なら出会うことのないまったく生活も、性格も違う二人が、いい味を出して、劇の練習をひっぱっていってくれていた。息子が、カレーを食べた後、遊んでいる姿を見て、うれしかった。ずっとキャンプに参加する気持ちでいるらしい。姉が来年卒業なので、それでおしまいなのだが。父は参加するけど。サマーキャンプがいつまであるのかと聞くのて、「伊藤さんが生きているうち」と言うと、「死んだら」「そこで終わりだな」と言うと、「Kさんがやったらいいよ」と言っていた。S君の父親が、今回は、父親グループのみんなと談笑していたのがよかった。

日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2016年9月25日

どもり が完全に消えることはない



 落語家・桂文福とのことを前回かきましたが、講演記録の「スタタリングナウ」は2号にわたりましたので、巻頭言は2号分書いたことになります。そのひとつです。 
 
 瘢痕     

      日本吃音臨床研究会 代表 伊藤伸二

 「文福さんは、30年もプロとして喋る仕事をされてきて、話す訓練をいやと言うほどされてきたと思いますが、それでも吃音は治りませんか?」

 桂文福さんに不躾な質問をしてみた。「治りまへんな」文福さんの答えは明快だった。
 昔の人々は、自ら損害を被りながらも、自然をねじ伏せるのではなく、折り合いをつけ、つきあう知恵を育んできた。ところが現代人は、自然を自分の都合の良いように克服しようと、自然を破壊してきた。様々な環境破壊が、人間を、暮らしをむしばみ始めてやっと、人間はその愚かさに気づき始めた。では、人間のことばやこころについてはどうだろう。 クローン人間が現実のものになりつつあり、宇宙旅行さえも実現しそうな現代。神経生理学的な研究や、高度な情報技術を駆使すれば、吃音は治るのではないか。多くの人の自然な思いかもしれない。

 まして、吃音は全く喋れない言語障害ではなく、時には流暢に喋れる。言わば、限りなくいわゆる普通に近い。あと一歩のことだから、なんとかなるのではないか、努力すれば治せるのではないかと考えてしまうのだろう。吃音に悩んだ私たちは、治りたいと思い詰め、治す努力を続けた。そしてますます悩みを深め、吃音を隠し、話すことを避けた。この日常生活に及ぼす影響に気づき、30年近くも前に、『吃音を治す努力の否定』を提起した。が、いまだに、インターネット上でも「吃音は治る、治せるのに、治ることを否定するとは何事か」と筋違いな批判をされている。
 
 自らの生活を一所懸命生き、結果として吃音が治った状態になることはあるだろうが、治そうとばかり考え、そのための努力をした人が治ったというのは私は知らない。治るものなら治るにこしたことはないが、現実に治す方法はない。
 吃音に悩んできた人にとって吃音が治るとは、人が空気を吸うように、自然に話せることだと言っていい。周りの人が吃音と気づかない、つまり98%は話せても、ある特定の音が出にくい2%で悩む人は、この2%が受け入れられずに悩んでいる。
 ことばの発達途上の吃音は、40%ほどは自然消失する。しかし、時間をかけて自分の中に入ってきた吃音が、小学生まで持ち越すと、これはもうその人の一部になり切っている。そのからだの一部になっている吃音が、跡形もなく消えることは恐らくないだろう。

 アメリカの言語病理学者フレデリック・マレーさんは、それを火山に例えた。噴火が収まったかに見えても、いつ噴火しても不思議はないという。マレーさんも、今は流暢に話して死火山のようだが、大噴火したらお手上げだと笑っておられた。         (『スタタリングナウ』39号)

 私は、かなりどもっていた21歳の頃と比べ、講義や講演など大勢の前ではほとんどどもらなくなった。
 しかし、ここ2年私は変わった。普段だけでなく、講演や大学などの授業でもかなりどもるようになった。昨年の秋、島根県で『自分を好きになる子に育てるために』の講演の時、《初恋の人》の文章を朗読した。このエッセイには、「自分と他者を遠ざけてきた吃音・・・」など、たくさんの「他者」が出てくる。「たたた・」となればいいが、ぐっと詰まって「た」が出ない。講演の中程から「他者」を瞬間に「人」に言い換えた。短い文章だが、普段の倍の時間がかかったろう。

 「嫌なことはしない。嫌な人とはつきあわない」を生活の信条にできる勝手気ままな生活を送っているので、ストレスがあるわけでも、将来への不安があるわけでもない。人前で話すことが多い私がなぜこのように最近どもるようになったのか、全く見当がつかない。吃音を治したいとはこれっぽっちも思っていないから、これはこれで自分らしくて悪くはないが、吃音の不思議さを思う。
 父もそうだった。吃音を治したいと謡曲を始め、その師範となり謡曲を生業とした。腹式呼吸の達人だった。お弟子さんに教えるときや、人前で話す時は、ほとんどどもらないが、家族の前ではよくどもった。吃音が治る、治せるという人は、文福さんや父や私にどんな訓練をしてくれるのか。私たちがどんな努力をすればいいのか。教えて欲しい。教えてもらっても文福さんも父も私もしないだろうけれども。

 瘢痕(はんこん・皮膚の腫れ物や傷などが治癒したあとに残るあと−広辞苑)は、消えることはない。
 
        「スタタリングナウ」2001.2.17  N0.78

日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2016年9月22日

どもりを個性に  桂文福オリジナルの落語家人生


 大阪吃音教室は、この日は休みなのですが、桂文福さんが来て下さることになり、臨時で特別の大阪吃音教室を開きます。

       § 臨時特別 大阪吃音教室 §
  日時     2016年9月30日(金)18:45〜21:00
  会場     應典院B研修室
  内容     桂文福さんとともに、どもりについて語ろう

桂文福さんと僕たちとのつながりはずいぶんと前からで、文福さんがご自分の吃音と向き合い、いろいろなところでカミングアウトされることになったきっかけは、NHKの「にんげんゆうゆう」という番組でした。

 「にんげんゆうゆう〜仲間がいるから乗り切れる〜」の番組に僕が出演したのを、文福さんの息子さんが録画して、それを見られた文福さんから、faxがあり、すぐに電話もかかってきました。初め、吃音の相談かと思ったくらいどもって電話をしてきて下さいました。それをご縁に、その後、人が集うことで有名な、大阪市天王寺区の應典院というお寺が毎年開催する、コモンズフェスタというイベントにゲストとして来ていただいたり、吃音ショートコースにも特別ゲストとして来て下さいました。吃音親子サマーキャンプにも行きたい行きたいとよくおしゃっています。コモンズフェスタでの講演記録は、「スタタリング・ナウ」で特集しています。今日は、「スタタリング・ナウ」での講演記録の前の紹介文と、その時の僕が書いた巻頭言を紹介します。

  
 
どもりを個性に桂文福オリジナルの落語家人生

 人が集い、息をする劇場寺院として知られる大阪市天王寺区・應典院を舞台に、様々なジャンルのNPOが集結する市民活動フェスティバル。日本吃音臨床研究会は今年は、個性的な落語家として活躍する桂文福さんの講演会で参加した。
 「てんてんてんまりてんてまり」
 紀州の殿様のお囃子にのって舞台の袖から登場するだけでもう笑いのモードに入っている。前列にずらっと並んだ小学生に一段と和やかさが増す。

 桂文福さんは多くの著作があるがその中で、「対人恐怖や赤面症」については書いておられるが、どもりについては全く書いておられない。お話の中でも、NHKの『にんげんゆうゆう』を息子さんがたまたまテレビ欄でみつけビデオ録画をし、仕事先から帰ってからそれをみて共感して直ぐにファックスを下さったが、「皆さんが、私のどもりについて知っており、話にきて欲しいと言われても、来なかったかもしれない。『にんげんゆうゆう』を見なければこの出会いはなかっただろうと言われる。

 大勢の人の前で、自分のどもりについて話すのは初めてだと言われ、これは私のカミングアウトだとおっしゃった。そして随分とどもりについて話して下さった。会場は常に爆笑の渦だった。どもりについての、苦しい、悲しい話を、おもしろおかしく話すわけではないが、「どもりも悪くないなあ」という、温かい大きな笑いが広がっていく。

 
価値観が広がる  
      
       日本吃音臨床研究会 代表 伊藤伸二

 180度の価値の転換、逆転の発想、マイナスをプラスになどのことばが流行ったときがある。プラス思考で生きれば脳内に革命が起きる、との陳腐な本がベストセラーにもなった。
 人が変わるとは、どういう道筋を辿るのだろうか。実際に180度の価値の転換ができて、その人が生きやすくなるのであれば、それはそれでいい。しかし、価値の転換にどうもついていけない感じがするのは、今在る自分を否定する、あるいは自分が否定されることへの抵抗感、嫌悪感からだろう。

 私がどもりに悩み、苦しみ、将来の展望が全くもてずに堂々めぐりをして悩んでいた21歳の頃から、それなりに自己肯定への道を歩み始めたその道筋は、180度の価値の転換、どもりをプラスに、などというものでは決してなかった。どもりを治したいと、精一杯治す努力をしても治らず、「まあ、しゃあないか」と事実を認めたところから出発したように思う。どもりながらも生活を続けて数年後、ふと立ち止まったとき、数年前の自分とは随分変わっていることに気づいた。価値の転換や自分の変化、成長を目指して取り組んだことは何一つなかったから、自分の変化に気づかなかった。おそらく傷が癒えるときに薄皮ができ、その薄皮が1枚1枚はがれるようなものであったような気がする。

 昨秋、應典院で開かれたコモンズフェスタで、桂文福さんがどもりについて語って下さった。
 桂文福さんの落語家としての半生は、涙と笑いに満ちたものだった。どもりでシャイで対人恐怖で赤面症だった文福さんが、個性派の落語家として歩んでいく道は、最近CDとして出され全国でヒット中の『和歌山ラブソング』にも似て、『どもりラブソング』そのものだった。

 しかし、不安を抱いて落語家界へ飛び込み、どもるがゆえに起こる数々のできごとは、今は笑いとして話され、聞く方もつい大笑いしてしまうが、その真っ只中にいた頃は、不安、恐れ、悔しさ、腹立たしさ、様々な思いがうずまいていたことだろう。その後、どもるがゆえに失敗するテレビのインタビュー番組で「とほほ・・・」のギャグが大受けする。

 「そうか、どもって立ち往生し、『とほほ・・・』となるのもありか?!」
 どもっている自分をそのままに置いて、少しだけ価値観が広がったということだろう。
 障害児教育で「限りない発達」が言われたことがある。受け止め方によっては、人は縦への発達をつい考え、願ってしまう。縦へ、上への限りない成長、発達など在り得ないことだろう。しかし、自分の今できることを手を替え品を買えてならいくらでも出来る。つまり横へは広がっていける。

 悲しみも苦しみもあっていい。あるから喜びも味わえるのだ。その中でも何かが起こっていくのは、縦へではなく、横へ、価値観が広がるからだろう。自分を否定しないで、そのままに、カニのように横へ横へと歩いていく。背伸びしすぎないで、そのまま、あるいは少しだけの工夫や努力でできることに精一杯取り組む。その行動の範囲が広がっていくプロセスの中で、人はいろいろな人と出会い、価値観が広がっていくのだろう。

 桂文福さんの落語家としての30年の道のりは、どもっているどもりの症状をそのままにしながら、相撲甚句、河内音頭などと出会い、横へ横へと広がっていったように思う。

 だから落語をするときはどもることはなくても、一旦高座から下りて、どもりについて私と話す時の文福さんはかなりどもっておられたのだ。その後の打ち上げ会での酒席では更に、文福さんは楽しくどもっておられた。そのどもり方は私たちにはとても心地よく、仲間意識が一段と深まった。なんかほっと安心する。笑いと、あたたかい雰囲気がその場いっぱいに広がっていった。

 私たちが相談会や講演会を開くと必ずといっていいほど、「私はこうしてどもりを治した、軽くした。私もこれくらい喋れるようになったのだから、みんなも努力してどもりを軽くし、そして治せ」と言う人が現れる。その言動はどもりに悩む人たちへは励ましよりも大きなプレッシャーを与える。

 文福さんは違う。どもりを打ち負かすのではない、勝たなくても、少なくとも負けへんでと、取り組んできたから今の文福さんがある。
 「どもってもええやんか。そやけどな、どもっていてもおいやん(おじさん)のように、噺家のプロにもなれるんやで。プロになっても悔しいこと、悲しいこと、いっぱいある。けどな、負けへんで」

 その日、広島から、福井からと遠くからも小学生が前の席にずらりと並んでいた。その子どもたちに、ちょっと太った一茶さんが話しかけていた。
 「痩せ蛙 負けるな 一茶ここにあり」

  「スタタリング・ナウ 2001.1.20  NO.77」

日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2016年9月21日

YouTube どもり文学賞

 
 前回、ことば文学賞について紹介しました。
 どもる人が、自分の物語を読み上げ、そしてその作品について語る。これまでになかった映像だと思います。その映像を、YouTubeに公開しました。多くの人に見ていただきたいと、僕や映像プロジェクトの仲間は願っています。
 どうか、このサイトをぜひ多くの人に紹介してください。ことばの教室の先生や保護者だけでなく、どもる子どもにも見てもらいたいと願っています。また、吃音についてあまり知らない人、関心のなかった人にも、どもりながら、このように考えて生きている人がいることを知ってほしいと願っています。方々に拡散してくださいますよう、お願いします。 

 ことば文学賞とは

 ことば文学賞は、1998年、NPO法人大阪スタタリングプロジェクトが創設しました。
 吃音に悩んできた思いや体験を文章にし、作品として残したい。文章にすることは、本人にとって、自分を振り返り、体験を整理する機会になる。また、後に続く吃音に悩む人には、生きた見本にもなり得るのではないか。多くの人に読んでいただければ、体験の共有や吃音への理解につながり、作者の思いや体験が生かされるのではと考えました。毎年、15編ほどの応募があり、そのうち最優秀賞1編、優秀賞2編が選ばれ、表彰されています。

 YouTubeで、「大阪スタタリングプロジェクト」か「ことば文学賞」と入力していただければ見ることができます。また、下記のアドレスからも見ることができます。

4本の動画リストが表示されます。
https://www.youtube.com/channel/UCiKYmZkY9zCtzi4iQSgEvew

個別では以下のようになります。

【ことば文学賞】 どもりは審査委員長
https://youtu.be/e9itwmGMvDk

【ことば文学賞】 世界は、変わる
https://youtu.be/7mlWM1qI-D0

【ことば文学賞】 今は”ぞうさん”の気持ち
https://youtu.be/dprAza-VR88

【ことば文学賞】 新しい道を歩き始めて
https://youtu.be/FjuwISTokJc

日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2016年9月20日

どもりの物語を紡ぎたいーことば文学賞

 どもる人のセルフヘルプグループである、NPO法人大阪スタタリングプロジェクトでは、普段の活動を映像化して紹介していこうとのプロジェクトを立ち上げました。ます、YouTubeに公開するのが、ことば文学賞の作品を本人が読み上げ、その講評と、伊藤伸二との対談を収録するというものです。

 まず、ことば文学賞について1998.8.15 「スタタリング・ナウ」NO.48の記事を紹介します。

 ことば文学賞
 日本吃音臨床研究会 伊藤伸二                            

 自分史を書くことがブームになって久しい。そのブームよりもかなり前の1957年頃。「ふだん記」運動として自分史を書くことをすすめていた人がいた。橋本義夫さんは、ご自身を重い吃音だといい、50歳から文章を書き始めた。

 『私は少年後期から、ひどいドモリになった。壮年期まで続き、自由にしゃべれたのは幼少時代と晩年だけであった。もしも人生の盛りにこの障害がなかったら、全く違った方向を歩み、「みんなの文章」などすすめなかったであろう。肝心な時に言語が鎖につながれ、その間にした仕事は、どれもみな捕囚の仕事だった。言語の自由がなかったが、せめて文章の自由でもと、指導者もなく、「50からの独学」に入った。言語障害の身になると、普通にしゃべれることは、どのくらいありがたいことかが分かる。文章もそうである。名文、美文そんなものどうでもよい。そんなもの一般人には書けない相談である。普通の生活に必要な言葉のように、当たり前のことを何でも記録できるという、そのことがもっとも大切であり、もっともありがたいことである』
 『だれもが書ける文章一自分史のすすめ一』橋本義夫 講談社現代新書522

 橋本さんはかつて、文章というものは、名文、美文を標準にして書かなければならないと思いこんでいたために、劣等感、恥ずかしさなどが先立ち、書く気も起こらず、またとても書けるはずがないとあきらめ、メモ以外書かなかったと言う。

 「もう長く生きるわけではない。必要なことは書かなければ消えてしまう」
 50歳になり、ふとこう気づき、恥をかくつもりで書きはじめた。重い吃音のために、人とは交わらず、ひとりでこつこつと書く生活が続いた。毎日毎日書き続けた。人の喜びや悲しみのときにはつとめて書き、その当事者に贈った。さらに、自分の書くことで得た経験を周りの人に話すようにもなった。
 「不幸、失敗、困難、自責のことを書けば、誰も嘲るものはいない。自分の思うこと感じることをそのまま、自分の方法で書けばよい。私でさえも文章が書ける。書き始めたら繰り返せば誰でも書ける」

 橋本さんは、誰もが書ける文章作法を提唱し、日本全国に「みんなの文章」運動を巻き起こした。
 この運動によって、孤独な生活が一変した。
 「ふだん記」グループが全国に炎のように広がったのだった。70歳をすぎて、全国を駆け回り話す姿は、吃音のために、ことばが鎖につながれた人間の、最後の戦いであったのだろう。
 この呼びかけに応じて、私たちが自分史を書き始めて15年。大阪の吃音教室では、年に数回、「文章教室」を開いて書くことに取り組んできた。

 自分を表現するひとつの手段として、書く習慣を持ちたかった。さらには、後に続くどもる人やどもる子どものためにも書かなくてはならないと思った。
 この度私たちが、『ことば文学賞』を創設したのは、自分史を書こうと取り組み始めたときの熱気をもう一度取り戻したかったからだ。また、どもる人、どもらない人の別なく、幅広い多くの人々と、書くことを通して、吃音やことばについて考えたいと願ったからだ。

 私たちどもる人間は、ことばに苦しんできたと言いながら、ことばを大切にし、ことばについて深く考えてきたかと言えば、こころもとない。
 どもりに悩んだ私たち、人一倍ことばと格闘してきた私たちは、ことばについてもっと関心をもち、それを文章にしていきたいと改めて思う。
 橋本義夫さんの「ふだん記」運動に変わって、私たちの「ことばの文学賞」が発展していくことが、同じ吃音仲間である、橋本さんの遣志を継ぐことになるのだろう。
              伊藤伸二 1998.8.15 「スタタリング・ナウ」NO.48


 ことば文学賞
 吃音に悩んできた私たちは、ことばの大切さを実感します。
 ことばや吃音について、吃る人、吃らない人にかかわらず、多くの方々と様々な視点から語り合ったり、表現の場をもつことは、私たちの願いです。この度、『ことば文学賞』をつくりました。ことばや吃音についての日頃の思いを詩や文章に綴ってお寄せ下さい。
内容 「ことば」をテーマにした、詩、エッセイ、体験談、自分史。
規定 400字詰め原稿用紙10枚以内
賞  最優秀賞1編図書券3万円分 優秀賞2編図書券1万円分
 上記の「ことば文学賞」を大阪スタタリングプロジェクトが創設し、日本吃音臨床研究会の会員や月刊紙『スタタリングナウ』読者にも呼びかけがありました。日本吃音臨床研究会の会員である、岐阜大学付属小学校の田口めぐみさんの指導している中学生が応募して下さるなど、11編の詩や文章が集まりました。
 選考は、朝日新聞・学芸部の記者として文芸欄を長年担当してこられ、現在は朝日カルチャーセンターで講師をしておられる、詩人の高橋徹さんにお願いしました。大阪の吃音教室で開いている「文章教室」の講師を長年して下さっている方でもあります。
 高橋徹さんは、選考委員を快く引き受けて下さり、表彰式を兼ねた「文章教室」で、11編の応募作全ての講評と、受賞のいきさつを話して下さいました。
 
 ことば文学賞選考にあたって
高橋徹(詩人・朝日カルチャーセンター講師)


 「ことば文学賞を創設しました。11編、文章や詩が集まっているから、審査をして欲しい」
 こういう依頼を受けました。大役と言えぱ大役です。でも、皆様方の作品についてはもう5、6年になりますか、ずっと拝見しているものですから、たぶんお役に立つことができるであろうと思いました。

 私の場合は、発音することはまあ支障なくできていると自分で思っているのですが、ともあれ、ことばを文字にし、あるいは作品にして、それがいつのまにか自分の生業(なりわい)のごときものになった。それは単に生業ではなくて、自分の生き方を貫いているひとつの道として文章というもの、あるいは詩というものがあります。

 したがって、「ことば文学賞」という賞をお作りになったとお聞きしたとき、なんだか頭にパッと灯がともって、ちかちかとその灯がまたたいて、「ああ、喜んで引き受けますよ」と、たぶんお答えしたと思います。
 やはり、ことばを自分の生きる一番大事なものとしている者にとりましては、ことばに関わる場を持つことは大層幸せだと思っていますから、お引き受けしました。

 そうして、作品が送られてきて、早速開きました。あっと驚きましたのは、筆者の名前がないんです。「あれあれ?」と思うと同時に「ああ、なるほど」と思いました。たぶん、当局としては、「高橋という男はこちらで比較的よく、お話をしたり、皆さん方と若干の交流を持ったりしている、したがって作者の名前があれば、あるいは高橋はその名前にほだされたりしたらいかんな」と、恐らくそういう配慮で名前が伏せてあったと思います。私は私で、そのことは「良かった」と思っています。

 まさか、もうこんな年になって、そんなに人様の友情や感情を大事にして、その本質を踏み外すようなことはまずないと思っています。ないとは思っていますが、私も人間ですからあるいは、名前があったら、ひかれるかもわかりません。そういう私の配慮を一切させないようにして下さった当局に対して、私はむしろ感謝をしたい。感謝すると同時に、これは非常に深い配慮のもとにこの賞の設定が行われ、かつ、私に審査員を頼まれたということを、改めて感じたわけです。

 同時に、名前があることによって、非常にその人を意識するあまり、その人の作品が大層いいのに、「ああ、この人の作品がいいと思っているのは、僕がこの人に対して個人的にひかれているから、作品そのものはそうでもないのに、大層いいように錯覚しているのではないだろうか」という、そんな逆の奇妙な差別をすることにもなりかねないわけです。したがって、いずれにせよ名前がなかったことは、選者にとってはありがたいことであったと、改めて思いました。

 そんな風にして、冷静に作品11編を読ませていただきました。ただし、私は文章作品に対して優劣をつけるという考え方には、もともと疑問を持っています。俗にいう「うまい、へた」という言い方は許されないし、そういうことをすべきではない、と思っています。よく言うことですが、その人らしさが、その人らしいことばで書かれている。しかも一読して明快である。いや一読明快でなくても、その人が言わんとすることが読む者の胸にちゃんと伝わってくる。それはすなわち名文であると私は思っています。

 でも、こうして賞が設定され、応募された。そして、入賞するか、しないかは、応募されたときに自ら割り切っておられると考えれば、それはそれでまたいいわけです。したがって今回、一所懸命読ませていただきました。そして私は基準として、無意識のうちにこう考えていました。それは、当然ながら、どもりと自分、あるいはことばと自分。自分はそれにどう関わってきたのか、あるいはどのように苦しんできたのか、どうつきあってきたのか、まずそこのところが書かれていないと問題外である。おそらく、そのことはどなたもお書きになっているであろう。そして、そのことが自分にとって一体どういうことであるのか、生きてきたその歳月の中でどういう意味があったのだろうか、という点についても筆が及んでいれば、それは最高の出来であろうと考えました。
     1998.8.15 「スタタリング・ナウ」NO.48

日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2016年9月20日

言友会の全国展開 

  言友会の歴史として『吃音者宣言-言友会運動10年』 たいまつ社に書いたものの最後です。

 言友会が全国に広がったのは吉田昌平さんの力によるものです。僕の長い言友会活動の中で、最も信頼できる戦友でした。今でも彼とのいろんなエピソードが鮮明に思い出されます。彼が生きていたら、どんな展開になっただろうとよく思います。人間としてスケールの大きい人でした。今回で、言友会についての話は終わりです。彼と出会えたこと、本当に幸せでした。

 故吉田昌平氏の思い出

 私が言友会の活動の中で涙を流したのは、旧事務所が取り壊される時と吉田昌平氏の死に直面した時の2回である。
 言友会が好きで好きでたまらなかった彼と私はまさに言友会の虫であった。言友会の大会の議事の最中に喧嘩をしたり、意見が合わないと言っては何度も喧嘩をした。「お前みたいな奴とはもう会いたくない」とお互いに何度この言葉を言い合っただろうか。それでも私たちは離れることはなかった。彼は私にとって本気で怒りをぶつけられる相手であった。

 彼との出会いは昭和41年7月の下旬であったろうか。久しぶりに事務所を訪れた私は、見かけない男が一人、自分の家のように住みついているのを見て驚いた。一見おとなしそうで、変に図々しいこの男の間の抜けたけた話しぶりが、この家にいることの正当性を主張していた。
 話してみると愉快な男で、自分が何故ここに住んでいるのかを、おもしろおかしく語ってくれた。どもりに悩み、なんとかどもりを治したいと思いつめた彼は、職を捨て、恋人と離れて東京のどもり矯正所に来たのだった。
 そこで言友会を知り、例会に参加するうちに会がおもしろくなり、京都にも言友会を作ろうと決意したという。
 ちょうど夏休みに入っていた私は、彼と私と、そしてSとIとの4人で共同生活を始めた。彼が土方やダンプの運転手をして稼いだお金は、私たちの夕食代に消えていった。カレーライスやブタ汁を作り、夜も遅くまで語り明かした。2ヵ月にわたる私たちとの付き合いの中で、彼は京都で言友会を作るエネルギーを貯えていった。

 彼は、その後京都に戻り、言友会を作る活動を開始した。9月下旬京都に帰り翌年の6月まで、職につかずに彼は言友会の専従として仲間作りや事務所作りに専念した。
 活動家が育ち、会が軌道に乗ったのを見届けて、彼はタクシーの運転手になった。どもりながらも親切に応待する彼のタクシーは評判であったが、その料金収入のカーブは言友会の活動に対する貢献度と見事に反比例し続けた。
 その後、京都ろうあセンターの職員になった彼は、水を得た魚のように手話通訳や聴力検査・聴能訓練に打ち込んでいった。彼の豪放でユーモラスな性格と、人並み外れた行動力は、ろうあ者と吃音者との結びつきに大きな役割を果した。彼のシンボルとも言うべき大柄な体と太い手の指で、体ごと語る彼の手話はろうあ者の信頼を得ていった。「僕は手話をやりながら話すとどもらない、君も手話をやったらどうだ」と私たちにも推めたものだ。

 彼は京都、私は東京と生活の場は離れたが、二人は良く会った。彼は、私のことを「千三つ」と言っては良くからかった。大風呂敷を広げた話ばかりで、千に三つしかまともなことを言わないと皮肉るのだ。その彼とて、私に勝るとも劣らず話が大きかった。私たち二人が会うと夢は大きく広がった。
 彼は、良く東京に出てきては私と新宿のサウナで話し合った。私たちは、それをサウナ会談と名付けた。京都では受け入れてもらえない話でも、東京では受け入れられて話が進んでいく。それに力を得ては、彼は「東京は実行することを決意し動き始めた」と京都の会員を説得し、強引とも言えるやり方で京都言友会をリードして行った。

 その現われが、雑誌『ことばのりずむ』の発行であり第1回吃音問題研究集会の開催であった。
 当時、全国に言友会が広がりつつある情勢の中で、彼と私は「吃音児・者の指導はいかにあるべきか」「各地で吃音に対してどのような取り組みがなされているのか」「吃音とは何か」などを全国のレベルで総合的に考える雑誌や研究会の必要性を感じていた。京都と東京が一体となって雑誌作りが進められ、昭和46年9月『ことばのりずむ』が創刊された。その後、彼が病に倒れるまで彼を編集責任者とする京都言友会がその発刊の責任を担っていった。
 昭和47年5月には、彼を実行委員長とした第1回吃音問題研究集会が京都で開かれた。彼なくしてはとても開かれなかったと言われる集会であった。冒頭の「ハヒフヘ本日は……」で始まった実行委員長の挨拶は、未だに参加者の心に残っている。思えば、この吃音問題研究集会が終った頃から彼は時々頭痛を訴えるようになっていた。

 正月には一緒にマージャンをやろうと言っていた彼が、卓を囲む直前の昭和47年12月29日、病に倒れた。すぐ京都の病院に駆けつけた私は、大きな体の彼が小さくなってベッドに横たわっている姿を見て胸が締めつけられた。「伊藤やで」と言った私の声に頭だけを動かしてわかったという合図をしてくれた。
 その後、一進一退を続けた彼だが、時には見違える程元気な時もあった。そんなある時、彼は私にこう言った。「なあ伊藤、この春大阪教育大学を卒業したら東京へ帰るやろ。オレも病気が治ったら家族みんなを連れて一緒に東京へ行くわ。二人で東京言友会の専従をしたら東京で大きな事ができるで。やはり東京は日本の中心や、東京で活動しなきゃなあ。早く治りたいわ……」

 彼は病の中でも常に言友会のことを考えていた。その彼が、突然、余りにも急に昭和48年3月29日、帰らぬ人となった。病名は脳腫瘍であった。私の胸の中で、彼は今も生き続けている。「言友会を頼むよ」、彼はニッコリ笑ってそう言っているようだ。
     『吃音者宣言-言友会運動10年』 たいまつ社 1976年発行より

日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2016年9月18日

言友会誕生のエピソード 2

 老朽した家屋を事務所に

 発会式が無事に終わって、会員も80名近くになり、いろいろな活動が可能になってきた。新聞発行、会員の連絡と会の仕事は急に増え、いつまでも丹野さんの家をずうずうしく使うわけにはいかなかった。聞きとりにくい電話、それもひんぱんにかかってきては丹野さん一家がノイローゼになるのも無理なかった。
 しかし役員以外の会員はどこまでもずうずうしく、総会で提案された「事務所設置のための“千円カンパ”に猛烈に反対をし、そのまま丹野さんの家を使っていこうと言うのだった。やっとの思いで、わずかの差で可決されたものの前途は暗かった。

 そんなとき私達の新聞での呼びかけに、すぐ応じてくれたのは、かつてどもりで苦しんだ板谷松栄さんで、その日すぐ私達は喜びいさんで坂谷さんの貸そうという一軒家に出かけた。港区白金とくれば迎賓館が頭にうかぶ東京の一等地、この家がその家ですと言われてもしばらく信じられなかった。東京の文化財保存の実績を誇るかのように、今どきめずらしい汲み取り式の便所までついていた。私達が靴をぬいで上ろうとすると、そのままでいい、とおっしゃる。恐る恐る足を踏み入れると、“バリ!”と床板が破れる。私はもうがまんならなかった。とても人が住めるとは思えなかったのだ。案の定10年近く人が住んでいなかったらしい。
 若い私達の思いは通じず、板谷さんと丹野さんの話はすすみ、1ヵ月5,000円で話は決まった。総会でもめながらも集めたカンパ金は全て家屋修復に使われ、会員である大工さんを中心に10数名の会員が作業にあたった。ほこりにまみれているうちに、私達はこのボロ家に愛情をいだき始めていた。電話が入りタタミを入れ替えると泊まり込む人も増え、まさに仲間のたまり場となっていった。

 映画「若者たち」のこと

 事務所が言友会の活動の中心の場となるにつれ、そこには常に明るい笑い声が絶えなかった。若い私たちには雨もりのするどんなボロ屋でも、5人も10人も同じ屋根の下で夜遅くまで語れる場があるということはありがたかった。マージャン屋や酒場に早替わりすることもたびたびあったが、悲しいときうれしいとき、自然と足は事務所に向かった。

 会が充実するにしたがって、これまでの活動では物足りなくなってきた私たちは、何か夢のあることがしたくなっていた。また言友会の存在を大きくアピールすることはできないか、常にそのことが頭の中にあった時期でもあった。
 ある日、新聞で「若者たち」という映画が制作されながら、配給ルートが決まらず、おくらになりかけているという記事を読んだ。テレビで放映されていたものが映画化されたのだった。テレビで感動を受けていた私は、いい映画が興業価値がないことでおくらになることが不満だった。そしてその置かれた立場を言友会となぜかダブらせていた。
 「そうだ、この映画を全国に先がけて言友会で上映しよう。そして吃音の専門家に講演をお願いし、講演と映画の夕べを開こう。吃音の問題を考えると同時に、映画を通して若者の生き方を考えよう」
 そのことが頭にひらめくと私の胸は高鳴り、もうじっとしておれなくなった。さっそく制作した担当者に電話をし、新星映画社と俳優座へと出かけていった。どもりながら前向きに生きようとしている吃音者のこと、言友会のこと、そして今の私たちに必要なのは、映画『若者たち』の主人公のように、社会の矛盾を感じながらも、社会にたくましくはばたこうとする若者の生き方であることを訴えた。私たちの運動には理解や共感をしえても、末封切の映画の無料貸し出しとは別問題であった。あっさりと断わられたが、私は後ろへ引き下がれなかった。東京の吃音者に言友会の存在を広く知らせ、共に吃音問題を考え、生きる勇気を持つにはこの企画しかないと私は思いつめていたのだ。

 私は、六本木にある俳優座にその後も何度も足を運んだ。交渉を開始してすでに7ヵ月が過ぎた。そして、映画『若者たち』も上映ルートが決まらぬままであった。再度私はプロデューサーに長い長い手紙を書いた。あまりのしつこさにあきらめたのか、情勢が変化したからなのかわからなかったが、この手紙がきっかけとなって映画を無料で借り出すことに成功した。そして、上映運動が展開される時には協力を惜しまないことを約束した。これまで私が生きてきてこの日ほどうれしかった日はかつてなかった。さっそく事務所にいる仲間に伝え、手をとりあって喜んだ。
 とにかく、250名もの人を集め、主演の山本圭も参加してくれての夕べは成功した。会場を出る時参加者は『若者たち』の歌を口ずさんでいた。

吃音者、街に出る
 私たちのすばらしいオンボロ事務所も、4年間の会の活動の重みに耐えられなくなるほどに老朽化してきた。これまで活動が続けられたのはこの事務所のおかげと思えば、壊れてしまうのをそのまま見過ごすわけにはいかなかった。会費月200円の言友会に、事務所を修理するまとまったお金があるわけではなかったが、私は昭和45年の活動方針に事務所改築を入れた。方針案説明の時その費用の捻出方法を質問された私は、何とも答えられなかった。
 故吉田昌平氏と私は、京都と東京に離れてはいたものの、会活動で困ったことが起きた時や新しいことを考えついた時、私が京都へ出かけたり、彼が東京へ来るなどして常に密接に連絡をとりあっていた。新宿のサウナが彼と私の会議室だった。ゆったりした休憩室の中に2人でいると、夢はいつも果てしなく広がっていくのだった。私以上に政治の力を信じ、政治活動にもエネルギーを集中してきた彼は、私に吃音問題の解決のための請願運動の必要性を説いた。賛成をした私は、それでは全国的な規模でカンパ運動にもとりくもうと逆に提案をした。若かった私は恥ずかしいことに、その時カンパ金の方により強く心が動かされたのだった。
 さっそく東京、京都、その他の言友会で話しあいがもたれ、署名、請願運動を全国の言友会が展開することになった。署名用紙やビラが印刷され、狭い事務所がより狭く感じられるほど積み上げられた。
「これだけのビラを配るのに1年はかかるぞ」
 とそそっかしい印刷担当者を責めたが、あとのまつりであった。
 事務所で泊ることの多かった私は、いつも山と積まれたビラを眺めながら眠りについた。このビラを早く片付けなければならない。私たちは請願運動にエネルギーを集中していった。
 立看板が用意され、ハンドマイクがあるメーカーから提供された。それらを運ぶトラックも用意された。署名カンパ運動が始まったのは、冷たい風の吹きつける2月のことであった。
「ご通行中の皆さん、私たちはどもりです。自分のどもりを克服しようと集まっている言友会の者です。言語障害児対策は日本ではたいへん遅れています。全国にもっともっと多くの言語治療教室の設置と専門の治療機関を作らねばなりません」
 時にはどもり、時には大雄弁家になったつもりでマイクを手にした。新しく入った会員も古い会員も街頭に立った。1週間に3日、今日は有楽町、明日は目黒と東京中で署名カンパ運動が続けられた。昭和45年2月から12月の11ヵ月の間に、署名約5千、カンパ金43万円、言友会の会員の個人カンパを含めて60数万円が私たちの手元に集まった。

 事務所新築に動く

 その頃、言友会には、責任ある活動をしていくための専従がおかれた。その費用は全てカンパに頼らなければならなかった。60数名が毎月会費の他に500〜1,000円のカンパを継続してくれることになった。ともすれば全ての仕事を引きうけがちになり、昼間は一人きりで事務所にいる専従者を孤立させないためにも私たちは力を入れて活動を続けなければならなかった。その熱意が実ったのか、その年の言友会の夏の合宿には103名という記録的な参加者を得た。吃音者のエネルギーが千葉の海に爆発したのだった。
 しかし、事務所改築の交渉は順調には進まなかった。「新しく建てた建物は板谷氏の登記とするかわり、半永久的に言友会が使用し、家賃の月5,000円は20年間据え置く」という条件に、運営委員会では議論が百出した。言友会が全額費用を負担し、更に家賃を払うのはおかしいという意見が強く出され、たびたび板谷氏と交渉を重ねた結果、時価250万円する借地権を70万円で買い取ることに成功した。寒い夜、凍える手でマイクを持って訴え、寄せられた暖かいカンパ金60数万円は全て借地権の買い取りで消えた。常識では考えられない安い買い物ではあったが、お金のない言友会にとっては大きな金額であった。事務所新築は新しい局面を迎えた。

 全障研とともに事務所を

 障害者運動に積極的に関わる中で、私たちと全国障害者問題研究会(全障研)とのつきあいが始まっていた。
 そんなある日、私は、新宿にある全障研の事務所に遊びに出かけた。6畳一間のアパートを事務所として使用していた全障研も、また事務所を求めていることをそのとき知った。世間話の中から、言友会が事務所を作ろうとしているとの話がでた。そして共同出資で事務所を建てようというところまで話が進んだ。建築費用は折半し、所有は言友会で、5年間無料で全障研が1室を事務所として使い、5年たった時点で全障研が出した金の半分を返却するという条件は、私たち言友会にとっては願ってもないことであった。しかし、借地権買い取りその他ですでに80万円近いお金を使いきり、私たちにはお金が全くなくなってしまっていた。私たちはまた金策に苦労しなければならなくなった。

 その年5月の第4回言友会全国大会(名古屋)では、事務所新築を東京言友会のものと考えず、全言連の事務所として位置づけ、全国でカンパ運動に取りくむという大会決定がなされた。
 全国の仲間に励まされ、私たちはまた活動を開始した。私たちは再び街頭へ出るとともに、全会員にさらにカンパを要請した。

 カンパとともに、自分たちの力で少しでもお金を稼ごうと建築を請け負ってくれた建築会社でのアルバイトが始まった。毎週日曜日私たちは朝8時に集合した。建築資材の整備が私たちの仕事であった。炎天下まっ黒に日焼けした私たちは上半身裸で作業に励んだ。交通費は自己負担、さらにそこで得た報酬は全て事務所建設の費用になるという条件の中でも多くの人が参加をしてくれた。働いている人にとっては日曜日は休息日、それを返上しての参加だった。近くを通りかかったからと西瓜の差し入れをしてくれた会員、また建設会社の人の善意に励まされながら、私たちは汗にまみれた。
「風呂代ぐらいは出そう」
 と言うと、
「風呂代、出してくれるのですか?」
 と若い会員がうれしそうに言った。その頃の風呂代はまだ50円だったであろうか。みんなと汗を流しあい、風呂につかりながら、一日の仕事ぶりを話しあった。
「今日の分はトイレのタイル分ぐらいかな」

 私たちは、新しく建つであろう建物に思いをはせた。このバイトは、事務所が新築されてからも続いた。言友会のエネルギーが一気に爆発した頃の活動は楽しかった。事務所には常に5、6名が泊まりこみ、記念祭に、文化祭に、合宿にと言友会三大行事に取りくんだ。事務所新築が決まり建設会社との契約をかわした私たちは、次の目標、5周年記念大会へとエネルギーを集中させた。映画『若者たち』のスタッフを囲んでの討論会、みんなで歌う歌「言友会の歌」の発表、夢のような企画が会員のしゃにむな活動によって現実のものとなっていった。
 言友会の歌は、「若者たち」「昭和ブルース」の作曲家、佐藤勝氏が心よく作曲を引きうけてくださった。言友会の歌がテープによって届けられたとき、事務所で仕事をすませたあと、みんなで何度も何度も聞いた。さっそく生演奏のあるビアホールに楽符を持っていき、演奏してもらった。お客さんはどもりの人たちの歌とも知らず、私たちの歌に手拍子を打った。愉快だった。
 当日は、いろんなサークル、障害者団体の人びとがかけつけてくれ、400名の人が言友会の創立5周年を祝ってくれた。その数日後に旧事務所の取り壊しがあった。
 いろいろな活動があった。けんかをしたり飲んだりした。失恋に泣きむせんだ人もいた。ボロ屋だけど本当にみんなが親しんだ事務所が今取り壊される。私たちの思いを知る由もない建設会社の人たちが無造作に取り壊していく。
「もっと大事に扱ってください。」
 10名ほどの会員の見守る中、事務所は音をたてて崩れていった。涙が一筋、ほおを伝った。ありがとう。長い間ありがとう。私たちは心の中で叫んでいた。

 『吃音者宣言 言友会活動10年』 (たいまつ社) 1976年より

日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2016年9月16日
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