伊藤伸二の吃音(どもり)相談室

「どもり」の語り部・伊藤伸二(日本吃音臨床研究会代表)が、吃音(どもり)について語ります。

2012年04月

不本意ながら、どもって生きるより、納得して、どもって生きる。

  2012年4月13日(金)
 2012年度の大阪吃音教室が開講しました。
 毎年の開校式では、自己紹介の意味合いで、また吃音についての情報を共有する意味でも、参加者がみんなに聞きたい質問をして、4つのグループに分かれることをします。これを聞きたいと質問を出した人が、4つのグループにインタビューするという形です。これがなかなかおもしろい。 

【1】 いつから吃りはじめたか? (1) 小学校まで (2) 小学校 (3) 中〜大学 (4) 社会人
【2】 どもりの原因は? (1) 真似 (2) 遺伝 (3) ○○が原因 (4) 不明
【3】 どもりをカミングアウトしているか? (1) 家族 (2) 職場 (3) 一般社会すべて (4) 無し
【4】 一番苦手な場面は? (1) 電話  (2) 人前でのスピーチ (3) 本読み (4) 雑談

 初参加の人が5人いたので、本人の自己紹介と、その人への質問にかなりの時間をかけましたので、質問は4つでしたが、いろいろとバラエティーにとむ吃音に関する質問がだされました。
 どもり始めたのはやはり、小学入学前が多かったですが、中学や、高校生になったからの人も、4人ほどいましたし、初参加の48歳の男性は、それまでまったくどもらなかったし、意識もなかったのが、自己紹介の時、自分の名前がなぜか出なくなり、それから、言いにくくなったそうで、10年前のことだそうです。
 アメリカの言語病理学は、よほど強く頭を打たない限り、10歳を超えてどもり始めることは、ほとんどないと言い切っていますが、たくさんの人が集まる、セルフヘルプグループには、10歳を超えてからどもり始めた人は少なくありません。
 言語聴覚士の専門学校では、「発達性吃音」と「獲得性吃音」があると教えなければなりません。国家試験にそう出題されるからです。10歳前にどもり始めるのを発達性で、それ以降を獲得性といいます。それを、「心因性吃音」と「症候性吃音」に分けます。脳卒中や交通事故で脳にダメージを受けると、失語症になりますが、吃音によく似た話し方になります。それを以前は吃音ではなく、「吃様症状」として、吃音とは考えず、失語症の言語症状のひとつだと考えていました。このように分け方をすると、これと違って原因が明確でないものはすべて「心因性」になってしまいます。高校生になってから、38歳になってからと言った人は、「心因性」と言えるような強いきっかけはないのです。「発達性」「獲得性」とはばかげた分け方だと改めて思います。

 これらの質問コーナーの後、私が参加者の質問をうけて少し話しました。
 質問「どもりが治せないという根拠は?」
 伊藤「治っていないという事実を言っています。これまで数千人のどもる人に会ってきたが、誰一人として治ったという人に、私は出会っていない」
 
 質問「吃音の症状を軽減させることは可能か?」
 伊藤「吃音は自然に変わるもの。自然に変わっていくものに身をゆだねるしかない。軽減させることを目的にして努力しても変わらないが、話すことから逃げない生活の中で、結果として軽減されることは少なくない。どもる人の本当の苦しみは“どもれない苦しみ”で、「どもってもいい」と考えられたら、話せない場面はなくなる。アメリカは、吃音コントローと称して、ごまかす方法を教えている。大切なのは「自分がラクに生きられるか」で、この吃音教室に来て、「どもれる喜び」を味わった人は多い。気持ちが解放され、“伝える”ことの大事さに気づく。価値観が変わる。

 質問「どもりを受け入れている人は、他人からのプレッシャーを感じないのか?」
 伊藤「受容とか受け入れるという言葉を僕たちは使わない。受容する、受け入れるということは、そんなに簡単なものではない。生涯かけて少しずつ感じていく、プロセスだ。死ぬ直前に感じるものかもしれない。受容する、受け入れるという表現より「どもる事実を受け入れよう」と私たちは言う。どもる事実を認めていても、他人からのプレッシャーからでなくても、恥ずかしいとか、どもりたくない、という気持ちも当然ある。しかし、基本的にはどもる事実を認める。吃音を受け入れられない自分も認め、恥ずかしくても、どもりたくなくても、逃げずに話していく。その生活の中で、どもる事実をさらに認められるようになる。
 三重県の津市で、小学生と話したとき驚いた。僕たちは、“普通”になりたくて、もがいてきたが、4年生の男の子が、「どもりを治したくない。少数だからいい。普通になりたくない」と言った。岡山の子どもが、吃音は「責任」だという表現をしていた。「どもる僕たちには、吃音を理解してもらうためにも、どもる責任がある」と言っていた。

 あといくつかのやりとりがありましたが、最後に締めくくったのが次のことはです。

 「吃音と共に生きる」を難しいと人は言うが、どんなに治したいと、治そうと試みて努力している人であっても、吃音を認められずにいる人であっても、現実には社会生活を送っている人は、「吃音と共に生きている」。ただ、不本意ながら吃音と共に生きるのと、「どもったままでいい」と、納得して生きている違いがあるだけだ。
 どっちみち、吃音と共に生きるのなら、納得して生きていきたい。大阪吃音教室では、納得して、覚悟を決めて吃音と共に生きるには、何を知り、勉強し、練習すればいいかを考えています。新しく参加した人も、是非継続して来て下さい。

 日本吃音臨床研究会会長 伊藤伸二 2012/04/27

映画「若者たち」

 私にとってそれまでで一番うれしかったこと

 吃音に悩み、21歳まで深く悩んでいた私にとって、生涯忘れられないうれしかった、大きな出来事がいくつかありますが、この映画の上映がその始まりでした。

 4月26日 NHKBSプレミアム 13時〜14時39分
 「若者たち」が放送されます。 是非見て下さい。

 この映画は、私がどもる人のセルフヘルプグループ、言友会をつくり、3年目、「公開討論と映画の夕べ」として、私たちが初めて上映し、その後、自主上映運動が全国に広がった映画です。
 「吃音者宣言」 たいまつ社に、「言友会誕生のエピソード」の章に次のように書いた文章がありました。
 

映画「若者たち」のこと
 事務所が言友会の活動の中心の場となるにつれ、そこには常に明るい笑い声が絶えなかった。若い私たちには雨もりのするどんなボロ屋でも、5人も10人も同じ屋根の下で夜遅くまで語れる場があるということはありがたかった。
 マージャン屋や酒場に早替わりすることもたびたびあったが、悲しいときうれしいとき、自然と足は事務所に向かった。 会が充実するにしたがって、これまでの活動では物足りなくなってきた私たちは、何か夢のあることがしたくなっていた。また言友会の存在を大きくアピールすることはできないか、常にそのことが頭の中にあった時期でもあった。
 ある日、新聞で「若者たち」という映画が制作されながら、配給ルートが決まらず、おくらになりかけているという記事を読んだ。テレビで放映されていたものが映画化されたのだった。テレビで感動を受けていた私は、いい映画が興業価値がないことでおくらになることが不満だった。そしてその置かれた立場を言友会となぜかダブらせていた。
 「そうだ、この映画を全国に先がけて言友会で上映しよう。そして吃音の専門家に講演をお願いし、講演と映画の夕べを開こう。吃音の問題を考えると同時に、映画を通して若者の生き方を考えよう」
 そのことが頭にひらめくと私の胸は高鳴り、もうじっとしておれなくなった。さっそく制作した担当者に電話をし、新星映画社と俳優座へと出かけていった。どもりながら前向きに生きようとしている吃音者のこと、言友会のこと、そして今の私たちに必要なのは、映画『若者たち』の主人公のように、社会の矛盾を感じながらも、社会にたくましくはばたこうとする若者の生き方であることを訴えた。私たちの運動には理解や共感をしえても、末封切の映画の無料貸し出しとは別問題であった。あっさりと断わられたが、私は後ろへ引き下がれなかった。東京の吃音者に言友会の存在を広く知らせ、共に吃音問題を考え、生きる勇気を持つにはこの企画しかないと私は思いつめていたのだ。
 私は、六本木にある俳優座にその後も何度も足を運んだ。交渉を開始してすでに7ヵ月が過ぎた。そして、映画『若者たち』も上映ルートが決まらぬままであった。再度私はプロデューサーに長い長い手紙を書いた。あまりのしつこさにあきらめたのか、情勢が変化したからなのかわからなかったが、この手紙がきっかけとなって映画を無料で借り出すことに成功した。そして、上映運動が展開される時には協力を惜しまないことを約束した。これまで私が生きてきてこの日ほどうれしかった日はかつてなかった。さっそく事務所にいる仲間に伝え、手をとりあって喜んだ。
 とにかく、250名もの人を集め、主演の山本圭も参加してくれての夕べは成功した。会場を出る時参加者は『若者たち』の歌を口ずさんでいた。

 日本吃音臨床研究会会長・伊藤伸二 2012/04/24

増野肇教授最終講義のサイコドラマ


 人と人とをつなぐサイコドラマ

 前回最終講義の様子は報告しましたが、写真がないためにイメージできなかったことでしょう。
 カメラをもっていったのですが、周りの迷惑にもなるので、あまりシヤッターは切れず、また、電池切れで、最後のクライマックスがとれなかったのですが、少しとったものだけでも掲載します。

 「だれもが恐怖や不安を持っています。弱いあなただからこそ、周りの人が助けてくれたのです。危機は成長のチャンスだともいえます。物事を正しくみて、その道を進みなさい。不安はつきものです。アウシュビッツで救われたのは、希望を持てた人です。その希望をみつけるには、サイコドラマが一番いい」

 ドラマの最後の方の言葉です。

 増野さんは、弱さをそのままさらけ出す人です。だからたくさんの人が周りにあつまり、互いを支え合ったのでしょう。50人ほどの出演者。それぞれの人との出会い、ドラマがあったのだと、出演する人たちの姿から、想像できました。まさに、人と人とを結びつける、サイコドラマと共に生きてこられた人生だったのでしょう。
 私の人生も、このようにサイコドラマで見てみたい、とふと思ったのでした。
 
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 日本吃音臨床研究会・会長 伊藤伸二 2012年4月13日

増野肇教授最終講義−サイコドラマの魅力を伝えて−

ひとりの精神科医の豊かな人生

 「今日は、出かけるのを控えましょう、台風並みの悪天候です」。天気予報通り、
中央線の武蔵境駅につた時には、雨が降り出し風も強くなってきました。タクシーでルーテル学院大学に着き、会場のチャペルの受付に行くと、「これ、増野先生からのクッキーです」と、ダンスをしている増野さんのイラスト入りのクッキーと、最終講義の案内のレジメを渡されました。クッキー?と思ったが、そこが増野さんらしいところなのでしょう。
 増野さんはすぐに、私たちをみつけると、にこっと笑って、「すみません。忘れてまして。大体見たので、もうすぐ送ります」と言われた。東京に来る前に印刷に回しておきたかった日本吃音臨床研究会の年報「サイコドラマ入門」の原稿のことだ。チェックしてほしいと頼んでいたもので、忙しいのでもう少し待ってほしいと言われていたものだった。 会場にはもうすでにたくさんの人が入っていました。さすがに誰一人知った顔はいない。ちょうど舞台の真ん前の席が空いていたので座る。特等席です。いすがひとつ置かれているだけの舞台、左の方にたくさんのパイプいすがあって、みんな黒い服を着て、少し緊張した面持ちで座っています。今日の出演者です。
 レジメには、「私の歩んできた道と社会福祉 喜寿を迎えて」とあり、社会情勢とともに、年表が細かく書かれています。
 本来の最終講義は、昨年の3月12日に予定されていたが、前日の東日本大震災のため、1年延期されたのです。この1年間で、シナリオもずいぶん変わり、温め、練り直し、熟成された舞台を見ることができるのは幸せでした。こんな案内をいただいていました。

 「ルーテル学院大学を退職するに当たり、精神科医としての半世紀、大学の教授としての25年間を振り返り、ソシオドラマの形式で上演いたします。本当は、昨年上演の予定でしたが、東日本大震災のために注しになりました。1933年の3月に起きた昭和の三陸大津波の1ヶ月後に生まれた私としては、この問題も取り入れるべきだと考えて、被災地の援助と共にドラマの中でも取り上げるようにしました。神奈川、宇都宮など私が生きてきた各地で上演を繰り返し、内容が整理されました。本来のソシオドラマは即興でやるべきですが、授業でやってきたようにシナリオを書き、音楽を入れてちゅー時刈る形式にしました。精神保健の歴史を取り上げた点はソシオドラマですが、私個人の道筋はサイコドラマです。そこで、シナリオ・ソシオ・サイコ・ミュージカルと名付けました。
 震災によって明らかになった原発の問題も、年間3万人を超した自死の問題も、精神保健の面からは同じ課題と考えます。社会福祉を担うソーシャルワーカーの役割が大きくなります。そして、現在の日本が遭遇している、大きな危機においてはスピリチャルな側面を欠かすことができきません。その意味で、キリスト教を基本にしたルーテル学院大学の役割が大きく求められる時にあるように思います。
 そんな思いを持ちながら、サイコドラマの仲間や、これまで教えてきた人たちと一緒に上演するソシオサイコミュージカルです。お出でいただき、一緒に考えてみましょう。お待ちしています」

 「気が小さかった男が、精神保健の世界でどう生きてきたか、どうぞご覧下さい」という増野さんのことばで、舞台の幕が上がりました。

 舞台の前にあるのは、いすがひとつ。左手に50人の出演者、増野さんは右手に座り、解説、説明しながら、舞台が進んでいきます。
書き留めたメモをもとに再現します。

第1章 増野肇が生まれる前の時代 1900〜1930年代
 1900年に父が、1910年に母が生まれる。そして、この頃、増野さんが影響をうけた人が次々にこの世に誕生している。森田正馬が1874年、ジロドゥが1882年、モレノが1889年、モレノの妻であるザーカ・モレノが1917年。そのたくさんの人たちが次々に舞台に登場し、大事なことばを言っていく。
 精神病院でのひどい体験を綴った本「我が魂に出会う」
 フロイト 恐怖、抑圧された恐怖を解明するのが治療である。
 森田正馬 授業で病気について学ぶと、そのすべてが自分にあてはまると思って悩む。そして、死ぬ気で勉強したら、試験にも合格した。そのとき、人間本来の目的で生きていったらいいんだということを実感する。
 ロジャーズ 人間には、自分で自分を成長させる力がある。治っていく力がある。その力を周りから守っていくのが、カウンセラーの役割だ。
 プラット その頃、結核はおそろしい病気だった。プラット医師は、結核患者を集団で治療した。すると、不思議なことに、仲間の力で、生活を変えていくことができ、仲間がいればがんばれそうだという患者が増えていった。集団療法のはじまりだと言える。
 モレノ 生きている新聞(リビングニュース)という、自分の問題を舞台でやるようになった。サイコドラマのはじまりだと言える。
 酒を断つことができないでいた人たちが、大きな力を信じることと、仲間と一緒に活動することを大切にして、アルコール依存症の会を作った。
 時は、ドイツはヒットラー、そして日本は軍国主義への道を突き進んでいった。

第2章 肇の誕生と成長 1930年〜1950年代
 1933年、増野肇の誕生。幼児洗礼を受けている。
 小さい頃から、2つの性格が存在していた。一つは、気が小さく、こわがりで、おくびょう。特に、大きな音、たとえば、雷や花火、祭りの太鼓の音などが苦手だった。また、大きな波や海、津波が怖かった。だから、泳ぐことが苦手。その一方で、おちゃめで、ひょうきんで、踊りが好きだった。

 花火の音におびえて、うずくまっている肇の周りに、恐怖のダンサーが登場する。黒ずくめの服装のダンサーたちは、肇を取り囲むようにして、指さしながら、低い声で歌う。
♪大きな音は こわーい 怖い 雷 花火に祭りの太鼓
 大きな波は こわーい 怖い 嵐に 地震の大津波
 この恐怖のダンサーは、舞台の中でよく登場します。色と音が舞台の中でアクセントになっていました。

 妻である信子が、1938年に生まれる。信子は、未熟児であった。もうだめかとあきらめようとしたとき、信子の命を救ってくれたのが、母である。体が弱いまま、生きていくことになる。
 肇、暁星小学校に入学。こわがりの性格は直らず、小学校でもおくびょうで、声が出なかった。これを見た父が、近くの江戸川小学校に転校させた。このおかげで、先生に父が話したこともあって、友だちができた。楽しかった。特に、「ま」のつく3人組が仲良かった。3まと呼ばれた。

 日本は戦争に入っていった。島根県に疎開した。そして、津和野で、天皇の玉音放送を聞いた。
 小石川校校に行った。白井君という友人ができた。白井君は女の人によくもてた。白井君と一緒に教会に行った。教会に行けば、出会いがあるかもというやましい気持ちだったが。修学旅行があった。高校でもクラスの中では友だちもいて、楽しくやっていた。ところが、修学旅行のときは、クラスの枠は取り払われ、みんなが楽しくしていた。自由行動になったとき、肇の周りにはだれもいなかった。ひとりぼっちになってしまった。肇にとって、久しぶりのひとりぼっちである。ここでまた、あの恐怖のダンサーが登場してきた。
 白井君は朝日新聞社に入った。肇は、慈恵医大にすすんだ。慈恵医大でも、優れた友人に恵まれた。そして、そこで、ミュージカルを上演した。それが見事に当たったため、その後、やみつきになってしまった。
 父が肝臓癌で亡くなった。父の跡を継がなくていいと思った。
 「間奏曲」ジロドゥのせりふ

第3章 統合失調症と初声荘病院  1950〜60年代
インターンの時、精神病院を訪れた。そのときの恐怖をよく覚えている。分裂病になっても、安心して生きていけるようになりたいと思った。そういう世の中をつくっていかないといけないと思った。大原先生から、心理劇をやってみないかと誘われた。
 そのころ、高良興生病院では、セルフヘルプグループのはしりのような動きが始まっていた。けやき会という、一年に一度集まる会が行われていた。退院してもよくならない、元気にならないということがよくあり、一度は集まった。元気にならないときは、昔の日記を読んで、それで元気になった。
 葉山の病院で、イギリスのジョーンズ先生が、治療共同体ということを言い出した。患者たちが集まってただ話し合いをしているだけで、よくなっていったというのだ。鍵のない病院、みんなが安心して治療できる病院を作りたいと思った。
 そして、初声荘病院を作った。治療共同体や話し合いは、舞台のようだった。喫茶店もあって、そこで、ある一人の女性がシュークリームを作っていた。その人が、後に増野先生の奥様になられる信子さんだった。シャイで気が小さい肇と信子さんは、劇団四季の練習風景を見に行ったことで接近した。「恋愛は誤作動で起こる」と言ったのは、べてるの家の向谷地さんだ。やがてふたりは結婚し、肇は仕事、信子さんは子育てに忙しくなっていった。

第4章 栃木県精神神経センターとセルフヘルプグループ 1970〜80年代
 ソーシャルワーカーの時代が始まった。栃木精神神経センターより依頼があって、行くことになった。キャプランの「予防精神医学」の翻訳をしよう、病院だけでなく県レベルの治療共同体にしよう、地域に安心できるサポートグループをつくろう、次々と事業が広がり、たくさんのイベントがあった。根本にあるものは、当事者を大切にしようということだった。べてるの家もこの頃始まった。

第5章 大学教員としての時代 1990〜2000年代
 日本女子大学の西生田キャンパス。ウィーンに出かけた。モレノに導かれたような旅だった。そこで、信子さんの乳がんが分かった。手術もしない、抗がん剤も使わないと言う。伊丹先生の生きがい療法、石原先生のニンジンジュース断食法をする。
 その前に、高良さんが97歳で亡くなる。精神保健福祉士が国家資格となる。
 医者というより、ソーシャルワーカーとして生きてきたようだ。
 日本女子大学を定年退職した跡、ルーテル学院大学に。ここは、ソーシャルワーカーを育てる大学だった。タペストリー描かれている男が「ようやく来たね。待ってたよ」と言ってくれた。
 信子の再発。そして、その前に、大の親友の白井さん、矢内さんが亡くなる。信子さんも最後はピースハウスで亡くなる。また、ひとりぼっちになってしまった。

 お連れ合いの信子さんを亡くされ、親友だった白井さんも矢内さんも亡くされ、絶望の中にいた増野さん。恐怖のダンサーがまた、踊りながら出てきた。

 何に足してもやる気を失っていた肇は、アメリカに行く。そこで、ザーカ・モレノに会い、サイコドラマの主役をした。ダジャレを連発し、以前の元気な肇に戻ってきた。大切な人を亡くした跡、大きな力で支えられていることを実感した。神を信じるのには時期があると言われるが、今がそのときなのだろう。大きな力、神に支えられていることに気がついた。生きる意味というミュージカルをした。2011年3月、最終上演を行う予定だった。臆病なのは以前と変わっていない。初声、宇都宮、いろいろなところから逃げてきた。逃げてばかりの人生だった。弱さ、やさしさに惹かれて結婚した。ネガティブをポジティブに代えて生きてきた。危機をチャンスに変えてきた。人は弱いものである。だれもが恐怖や不安を持っている。弱いあなただからこそ、助けてくれた。危機は成長のチャンスだともいえる。物事を正しくみて、その道を進みなさい。不安はつきものです。アウシュビッツで救われたのは、希望を持てた人。その希望をみつけるには、サイコドラマが一番いい。

 増野さんの人生を、そのときどきに出会った人を登場させて語らせる。話だけよりずっと立体的になり、厚みが増したような気がしました。ひとりぼっちになった悲しみの中にいた増野さんを救った大きな力に涙が止まりませんでした。
 
 演じている人たちと増野さんとの深い強いつながりを感じました。増野さんの解説が舞台のせりふとズレだときは、訂正が入り、やりなおしもありました。舞台を作り上げていく過程を一緒に生きている気がしました。
 200人の参加者の中で、増野さんしか知らない人たちの中にいても、孤独感はまったく感じることなく、舞台を楽しむことができました。増野さんは、多くの人の深い愛に包まれて生きてこられたのでしょう。私たちまで幸せな気分になりました。

 13時30分開演の舞台は、16時過ぎまで続きました。会場のチャペルを出ると、激しかった雨が上がっていました。わざわざ、このために東京に来た甲斐がありました。

 日本吃音臨床研究会・会長 伊藤伸二 2012年4月10日

松元ヒロさんと土井敏邦さんが結びつく

 松元ヒロ
2012年01月19日17時02分39秒0002
2012年01月19日17時02分39秒0001



 久しぶりに、松元ヒロさんのライブに行ってきました。
 2005年10月、私たちの吃音ショートコースと名付けた吃音ワークショップに来ていただきました。3日間、タップリと松元ヒロワールドに浸ることができました。「笑いとユーモア」のテーマのワークショップです。
 私は大阪にいながら、吉本興業の笑いが好きになれません。笑い学会に入り、笑いやユーモアに強い関心をもちながら、吉本の笑いにはついていけません。上方落語は好きなのですが、その落語家が、テレビのバラエティー番組に頻繁に出るようになって、上方落語の落語家も嫌になりそうです。
 
 笑いのワークショップをしたいと思いながら、ずっとできなかったのは、私の好きな笑いの講師が見つからなかったからです。「週刊金曜日」という週刊誌で、松元ヒロさんの対談を読んで、この人ならと、名古屋であったライブに行きました。2時間ほど笑い放しでした。その場で私の企画を話して講師として来て下さることになりました。

 しかし、ライブはたくさん経験しているものの、ワークショップという、長い時間の講師、しかも、笑いの芸でなく、話したり、ワークショップをするということで、一瞬戸惑われたようですが、私の勢いに負けてなのか、講師を引き受けて下さり、いつものライブの出し物だけでなく、パントマイムの演習、私との対談など、私たちの計画にのって下さいました。その様子は、「笑いとユーモアの人間学」という冊子にまとめられています。

 その後、何度か関西地方に来られたときのライブや、東京の明治安田生命ホールでのライブなどを見て、今回、紀伊國屋ホールでのライブに行ってきました。

 地方会場で見るヒロさんとは違って、大きなホールでのヒロさんは、一段と輝いていました。4日間の日程のすべてが前売り完売、当日券売り切れという大盛況の中での2日目、3月30日に一番前の席に座りました。まさか手を振るわけにもいきませんので、私がいることに気がついているかどうか分かりませんが、精一杯の声援を送っていました。

 しばらく見ない間に、芸風が変わったように私には感じられました。反戦、反権力の姿勢は当然変わりませんし、時の政府を批判することにも変わりがありませんが、より深く人間を紹介する話になっていました。私が行った3月30日だけの事かも知れませんが、今回は3人の人の紹介がすべてでした。

 一人は、このブログで紹介した、土井敏邦監督の「私を生きる」という映画の紹介でした。正月、湯布院で、友人の中曽根さんからいただいたDVDの話です。私もこの映画については、いろんな人に話していますが、このように立体的に話せば、より分かりやすく、笑いを交えて話せるのだと、うれしくなりました。私が大勢の人に観てもらいたい、知ってもらいたいと思っている「話」を、大勢の人の前でヒロさんが話して下さっている。やはり、私が唯一敬愛する「笑い芸人」です。一段と好きになりました。私が伝えたいことをヒロさんが大勢に話をし、大勢の人が笑い、共感している。こんな愉快なことはありません。幸せな気持ちで会場を後にしました。
 そうそう、あとの二人は、「立川談志」さんと、神戸の奇跡の画家といわれる「石井一男」さんの話です。三人三様の人柄の話は、胸を打ちました。
 立川談志は、大阪に来たときに行ったのですが、体調を崩して、談春が代わりに落語をしました。談春もよかったのですが、談志の落語を直に聞けなかったのは心残りです。  石井一男さんの絵は、神戸で見ることができるので、是非出会いたいと思います。

 この人に会いたい、この映画を見たい、この絵を見たい。聞き手にそのように思わせるもので、何か、良質の講演を聴いているような感じさえしました。わざわざ大阪から出かけてよかったと思えました。
 土井さんの「私を生きる」の記事、貼り付けました。

 日本吃音臨床研究会・会長 伊藤伸二 2012年4月3日
 ここからは、以前のブログです。

「卒業式や入学式で起立して君が代を歌うように」

 「日の丸、君が代」の問題は長く闘われてきました。この私のブログは、吃音についてのブログだから、そんな問題は関係ないと思われるでしょうが、私の子どもの頃からの、ある意味吃音以上に大きなテーマは、反戦平和です。また、吃音の臨床で、私が親や教師と子どもとは、人間としては対等あると、対等性を主張するとき、この問題を避けては通れません。
 君が代斉唱の時起立しない教師を処分することは、イデオロギーの問題ではなく、憲法に保障されている、基本的人権、表現の自由の尊重の問題であり、常に吃音の問題で、多くの人とは違う少数派の問題提起を続けるひとりの表現者として、他人事だとは私には思えません。自分の考え、意見を持てない、表現できない、尊重されない世の中は、 いかに経済的に豊かでも幸せな世の中ではありません。いろいろな考えがあって当然です。違う考えを互いに主張し会う権利が認められなかったら、本当に暗い世の中になってしまいます。

 国歌斉唱の時、不起立を続け、処分を受けた、根津公子さんや、「君が代」の伴奏を拒否し続ける音楽教師、佐藤美和子さんのことは、創刊時から愛読している『週刊金曜日』や新聞記事などでよく知っていました。何か応援したいと思いながら何もできずにいました。教育現場の言論統制に異議を唱え続けている土肥信雄・元三鷹高校校長のことは、1か月ほど前、週刊誌「アエラ」で詳しく紹介されていました。問題をよく承知しながら、これらの人々に尊敬と、心からの声援を送るしか私にはできませんでした。

 言論の自由を守ることがいかに大切なことか。言論統制された中国や北朝鮮の事情を垣間見て私たちは知っています。また、なぜあの戦争が起こり、止められなかったのか、私たちは十分に知っています。言論の自由が侵害されることに、今、私たちはあまりにも鈍感になりすぎているように思えます。とても生きづらい世の中に、どんどんなっていくような気がします。

 年末年始に滞在し、湯布院を去る間際に、中曽根さんが私にプレゼントしてくださったのが、「私」を貫くこの3人の闘いを丁寧に描いたドキュメンタリー映画のDVD『“私”を生きる』でした。
 私が、子どものころから大きなテーマにしていることが、身近なところで結びついた縁を不思議に思います。
 監督の土井敏邦さんと中曽根さん夫妻は親しい友人同士です。そして、湯布院でこのドキュメンタリーの上映会を企画、運営した世話人平野さんとも、今回、湯布院で親しく話ができました。

 「自分に嘘をつきたくない。生徒に嘘をつきたくない」と、根津公子さん。
「 今言わなければ後悔する。その後悔だけはしたくない」と、土肥信雄さん。
「炭鉱の危険を知らせるカナリヤの役割を担いたい」と、佐藤美和子さん。
 「これは教育問題や君が代、日の丸問題を論じるドキュメンタリーではない。日本社会の右傾化、戦前への回帰に抵抗し、自分が自分であり続けるために、凛として闘う、3人の教師たちの生き様の記録である」と、監督の土井敏邦さん。

 ビデオを見て、涙があふれました。何よりも、子どもたちの未来のために、時にくじけそうになる自分を奮い立たせて孤独な闘いを続ける勇気に、言葉がありません。
 DVDが発売されていますし、各地で上映会も開かれていくことと思います。
 みなさんも、このような問題に関心をもっていただければうれしいと心から思います。

 日本吃音臨床研究会・会長 伊藤伸二 2012年1月20日

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