前回紹介した、言友会誕生の地が上野公園で、上野公園が僕の「心の公園」になったように、僕にとって特別な歌で「心の歌」になったのが、映画『若者たち』の主題歌、「若者たち」です。この歌を口ずさむとき、この映画を僕たちが全国に先駆けて上映した時の興奮を思い出します。

 ♫ 君のゆく道は 果てしなく遠い
   だのになぜ 歯をくいしばり
   君はゆくのか そんなにしてまで
   空にまた 日が昇るとき
   若者はまた 歩き始める ♫

 僕はよく「しつこい男」だと言われます。「粘り強い」とも言えますが、一度こうだと決めたら、なかなか諦めません。吃音を治すことは、あれだけこだわっていたのに、さっぱりと諦めることができました。それなのに、その後は、こうだと決めたことについては、とことん諦めずに追求するのです。なかなか諦めない「しつこい男」だから、映画『若者たち』の制作会社の新星映画社と俳優座が、映画の無料貸し出しに応じてくれたのです。
 文章に書きましたが、それまで生きてきた中で、一番うれしいことでした。吃音のために何事も断念してきた僕が、7か月もしつこく頼み続け、実現したことなのですから。
 それと、今でこそ、研究会やグループが事務所をもつことは当たり前でしょうが、会員が100人もいないグループが、50年も前に、自前の事務所をつくろうとしたこと、今から思うと、よくやったものだと思います。寝泊まりできる事務所を持つことで、僕の、多くの人を巻き込んでの活動が本格的に動き始めるのです。毎日、毎日が楽しくてしようがない、高揚したあのころの感覚は、ずっと僕の中にあり続け、自家発電し、今でも燃えています。だからこそ、55年間も、一貫して吃音戦線の先頭に立ち続けることができたのでしょう。壊れそうな事務所、とても懐かしいです。
 

言友会誕生のエピソードと言友会活動の思い出(4) 

老朽した家屋を事務所に
事務所の写真 旧 発会式が無事に終わって、会員も80名近くになり、いろいろな活動が可能になってきた。新聞発行、会員の連絡と会の仕事は急に増え、いつまでも丹野さんの家をずうずうしく使うわけにはいかなかった。聞きとりにくい電話、それもひんぱんにかかってきては丹野さん一家がノイローゼになるのも無理なかった。
 しかし役員以外の会員はどこまでもずうずうしく、総会で提案された「事務所設置のための“千円カンパ”に猛烈に反対をし、そのまま丹野さんの家を使っていこうと言うのだった。やっとの思いで、わずかの差で可決されたものの前途は暗かった。
 そんなとき私達の新聞での呼びかけに、すぐ応じてくれたのは、かつてどもりで苦しんだ坂谷松栄さんで、その日すぐ私達は喜びいさんで坂谷さんの貸そうという一軒家に出かけた。港区白金とくれば迎賓館が頭にうかぶ東京の一等地。この家がその家ですと言われてもしばらく信じられなかった。東京の文化財保存の実績を誇るかのように、今どき珍しい汲み取り式の便所までついていた。私達が靴をぬいで上がろうとすると、そのままでいい、とおっしゃる。恐る恐る足を踏み入れると、“バリ!”と床板が破れる。私はもうがまんならなかった。とても人が住めるとは思えなかったのだ。案の定10年近く人が住んでいなかったらしい。
 若い私達の思いは通じず、坂谷さんと丹野さんの話はすすみ、1ヵ月5,000円で話は決まった。総会でもめながらも集めたカンパ金は全て家屋修復に使われ、会員である大工さんを中心に10数名の会員が作業にあたった。ほこりにまみれているうちに、私達はこのボロ家に愛情をいだき始めていた。電話が入りタタミを入れ替えると泊まり込む人も増え、まさに仲間のたまり場となっていった。

映画「若者たち」のこと
映画 若者たちのポスター 事務所が言友会の活動の中心の場となるにつれ、そこには常に明るい笑い声が絶えなかった。若い私たちには雨もりのするどんなボロ屋でも、5人も10人も同じ屋根の下で夜遅くまで語れる場があるということはありがたかった。マージャン屋や酒場に早替わりすることもたびたびあったが、悲しいときうれしいとき、自然と足は事務所に向かった。
 会が充実するにしたがって、これまでの活動では物足りなくなってきた私たちは、何か夢のあることがしたくなっていた。また言友会の存在を大きくアピールすることはできないか、常にそのことが頭の中にあった時期でもあった。
 ある日、新聞で『若者たち』という映画が制作されながら、配給ルートが決まらず、おくらになりかけているという記事を読んだ。テレビで放映されていたものが映画化されたのだった。テレビで感動を受けていた私は、いい映画が興業価値がないことでおくらになることが不満だった。そしてその置かれた立場を言友会となぜかダブらせていた。
 「そうだ、この映画を全国に先がけて言友会で上映しよう。そして吃音の専門家に講演をお願いし、講演と映画の夕べを開こう。吃音の問題を考えると同時に、映画を通して若者の生き方を考えよう」
 そのことが頭にひらめくと、私の胸は高鳴り、もうじっとしておれなくなった。さっそく制作した担当者に電話をし、新星映画社と俳優座へと出かけていった。どもりながら前向きに生きようとしている吃音者のこと、言友会のこと、そして今の私たちに必要なのは、映画『若者たち』の主人公のように、社会の矛盾を感じながらも、社会にたくましくはばたこうとする若者の生き方であることを訴えた。
 私たちの運動には理解や共感をしえても、末封切の映画の無料貸し出しとは別問題であった。あっさりと断わられたが、私は後ろへ引き下がれなかった。東京の吃音者に言友会の存在を広く知らせ、共に吃音問題を考え、生きる勇気を持つにはこの企画しかないと私は思いつめていたのだ。
 私は、六本木にある俳優座にその後も何度も足を運んだ。交渉を開始してすでに7ヵ月が過ぎた。そして、映画『若者たち』も上映ルートが決まらぬままであった。再度私はプロデューサーに長い長い手紙を書いた。あまりのしつこさにあきらめたのか、情勢が変化したからなのかわからなかったが、この手紙がきっかけとなって映画を無料で借り出すことに成功した。そして、上映運動が展開される時には協力を惜しまないことを約束した。これまで私が生きてきてこの日ほどうれしかった日はかつてなかった。さっそく事務所にいる仲間に伝え、手をとりあって喜んだ。
 とにかく、250名もの人を集め、主演の山本圭も参加してくれての夕べは成功した。会場を出る時参加者は『若者たち』の歌を口ずさんでいた。(つづく)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/2/21