30年間の吃音親子サマーキャンプでは、たくさんの出会いがありました。その中の一人に、今、関西学院大学教授の原田大介さんがいます。最近では、第6回親・教師・言語聴覚士のための吃音講習会に来て下さり、自分の体験を交えて吃音と、専門の国語教育について話して下さいました。話は、ユーモアに富んでおもしろく、大好評でした。
 また、原田さんのゼミ生が、吃音親子サマーキャンプにスタッフとして参加しました。その学生もどもりますが、どもりながら講義をする原田さんに惹かれて、原田さんのゼミに入ったそうです。自分が大学院生のときに参加した吃音親子サマーキャンプを、自分のゼミ生に紹介し、行ってみたらと誘ってくれたのです。不思議なご縁が今も続いています。
 原田さんの感想文を、このブログで紹介していいかどうかを問い合わせたところ、快諾をして下さったメールに、次のような文章が添えられていました。
 「久しぶりに自分の文章を読み、自分の文章に励まされるという不思議な体験をしました。また、当時と比べて、今の私はそこまで吃音のことを否定していないな、でもその気持ちもまた変わったりするのかなとも思ったり。吃音の症状が変わるように、吃音への思いも常に変わり続けるということでしょうね」
 15年前、原田さんが広島大学大学院生のとき、初めて参加した第16回吃音親子サマーキャンプの感想を紹介します。

第16回吃音親子サマーキャンプ 2005年
  会場    滋賀県彦根市荒神山自然の家
  参加者数  145名
  芝居    森は生きている(サムイル・マルシャーク)

《サマーキャンプ感想》
   吃音が生みだす「出会い」〜第16回吃音親子サマーキャンプに参加して〜
                  原田大介(広島大学大学院生)
 滋賀県でおこなわれた「第16回吃音親子サマーキャンプ」に参加した。はじめての参加だった。
 キャンプの名前の中にもある「吃音」。このことばの意味を完全に理解している人は、今回のキャンプの参加者だけでなく、地球上のすべての人の中にも存在しないのかもしれない。私もまた、吃音を理解することができない人間のひとりである。キャンプを終えた今も、それが何なのかが、さっぱりわからない。吃音とは、何だろう?
 私の生年月日は、1977年5月24日である。母が残してくれた「母子健康手帳」には、5歳の欄にある「発音が正確にできますか?」の項目に「いいえ」とチェックされている。6歳の欄には、「保健所の人に相談する」と記されてある。
 私自身、6歳のときには吃音であることを自覚していた。吃音をコンプレックスに感じ始めたのは、小学校2年生のときである。
 現在の私は28歳。計算してみると、私は吃音に、約20年間以上苦しめられてきたことになる。私にとって吃音とは、「嫌い」で「憎いもの」でしかない対象である。忘れるはずのない自分の名前が言えない瞬間は、身がちぎれるほど悲しくて、苦しい。実際、日常生活のなかでは、電話を使うなどの事務的な作業も多く求められる。
 多くの人があたりまえにできること。それが、あたりまえにできない存在であるということ。その事実を突きつけられる瞬間は、ただただ、みじめな気分になる。自分がちっぽけな存在であることを自覚する。吃音であることの「痛み」を笑って受けながすことができるほど、私は、強くはなれない。
 最初の問いにもどりたい。吃音とは何か。あえて定義すれば、吃音とは、「その存在すら忘れていたいのに、ことばを口にしたとたんに、「私」であることを突きつけてくるもの」である。吃音に対する私の否定的な気持ちは、今でも変わらない。
 しかし、少しずつ、ほんの少しずつだけれど、目には見えない静かな変化が、私のなかで起こりはじめている。その感情の変化にとまどい、揺れ動いている私がいる。
 「第16回吃音親子サマーキャンプ」に参加した数は、140名にのぼる。私はたくさんの人と話し、笑い、泣き、考えを深めることができた。すべての人と直接に話すことはできなくても、「時間を共有する」という大切な時間を私は過ごすことができた。
 吃音に関係する多くの人が気づいていることでもあるが、吃音について考えることは、吃音だけの問題に限定しない。吃音は、一人ひとりが抱えている「痛み」を投影している。ここで言う「痛み」とは、「生きづらさ」や「生き苦しさ」と言い換えてもよいだろう。それは、「隠しておきたいもの」であり、できることならば、「思い起こしたくないもの」である。避け続けていたい「私」の「痛み」と向き合うことの大切さを学ぶこと。そして、少しでも前にすすむための可能性を探ること。このキャンプは、吃音を通して、「痛み」について学ぶところでもあったのである。
 「人」の「痛み」について敏感な人は、「私」の「痛み」にも敏感な人である。「私」の「痛み」ときちんと向き合った人でなければ、「人」の「痛み」と向き合うことなどできるはずもない。吃音である人も吃音でない人も、キャンプにかかわり続けている人の多くは、そのことを直感的に見抜いている。
 おそらく、私が吃音でなかったら、キャンプに参加したメンバーと出会うことは一生なかっただろう。また、「私」という存在のありかたについて、ここまで考えることもなかっただろう。「吃音」という存在が、「人」とのつながりを生み出す「場」を提供しているだけでなく、「私」について考える場も提供しているのである。
 嫌いで、憎くて、その存在すら忘れていたいものが(私の場合吃音)、人の「出会い」を生み出すことがある。そして、「私」という存在について考える機会を生み出すことがある。
 世の中には、こんな不思議な現象があるようだ。逆に考えれば、嫌いで、憎くて、その存在すら忘れていたいものにしか生み出すことができない「出会い」も(つまり、吃音という特別な条件でしか生み出すことができなかった「出会い」も)、この世の中にはあるということだ。キャンプに参加したメンバーとの出会いは、まさに、そんな奇跡を感じさせる「出会い」だったように思う。
 私のなかには、「意味のないもの」や「無駄なもの」など、ひとつもない。それが、どんなに世間で言われるところの「欠点」であるとしても、人とのつながりを生みだし、「私」について考えるものになりうる。繰り返すが、吃音に対する私の否定的な気持ちに変わりはない。きれいごとだけではすまされない現実が、そこにあるからである。
 けれど、このキャンプに参加したことで、少しずつ、吃音に対する私のとらえかたが変わりつつある。そして、少しだけ、私という存在を、あるがままに受けとめようとしている私がいるのである。
 このキャンプに参加できたことを、私は心から感謝したいと思う。(了)  (2005.10.22)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/9/15