吃音に対する努力とは、生きる情熱をもつこと

 大阪教育大学特殊教育特別専攻科の集中講義「吃音ショートコース」の事前学習として吃音の著名人に送ったアンケートの続きを紹介します。哲学者の高橋庄治さんです。
人民の哲学 表紙 言友会創立の1965年から1970年にかけて、若い労働者の間に「社会学習」の運動が盛んでした。その若者グループと交流のあった僕は、高橋庄治さんとも知り合いました。『人民の哲学』でよく知られる高橋さんの『ものの見方考え方』をテキストに学習をしていました。
 大阪教育大学特殊教育特別専攻科学生へのアンケートだけでなく、僕の著書、『吃音者宣言 言友会運動十年』(たいまつ社 1976.11)にも書いて下さった、「たとえどもりでも」も、合わせて紹介します。
ものの見方考え方 表紙
高橋庄治さん(哲学者)
 御質問にお答えいたします。
(1)私にとって"吃音の悩み"とはどんなものであったか。
 小学校のとき、「これを読める人?」と先生からきかれても、手を挙げることができなかった。答えがわかっていても、どもらない言葉の「わかりません」で答えた。
 どもりは、私の能力の手足をしばり、自由をしばり、自分を劣等者とした。“どもらない自分”は夢にえがいたユートピアであった。
 なんとかして、なおしたいと思い、いろいろなことをしたが、だめであった。それがさらに苦悩をました。
(2)吃音を克服した状況はどうであったか。
 私の人生観−世界観−が変わり、生き方が変わり、しっかりと生きてゆく決意ができた。これが最大の事情であった。
 人生観(世界観)が変わり、確立したことは私の意欲を強大にした。
 いい世のなかをつくるために、私は自分−個の恥など問題でなくなった。どんなに自分が恥をかいてどもっても、そんなことよりも、いい世のなかをつくることの方が、私にとって重大となった。
 ひとまえで、一生けんめいに喋った。どもった。いくらどもっても喋った。
 こんなことがあった。横浜国立大学の先生が「君がどもりどもり喋ったあのことが、自分には忘れられない。君はどもりのために、どれだけ得をしているかしれない。どれだけ印象的な言葉にしているかしれない。私もどもりたい」と言った。
 大山郁夫先生がどもった。多くの人がいった。「あのどもりが先生の話をいっそう魅力的なものにする」と。
 私のまねをしてどもる練習をした友だちもいた。
(3)吃音について、どう思っているか。吃音観。
 私はいまでも、どれだけかどもります。もっとどもればいいのかもしれませんが……。
 どもるために、言わないでいいような、どうでもいいようなことを思っていたら、言っても言わなくてもいいようなことを思っていたら−そんなことなら、言う必要はないと思う。どうしても、言わずにいられないことを考えていること、それとどもりとの関係がどもりの問題です。
 おなかが痛くて医者のところへ行って、どもるのが恥ずかしいからといって、喋らないくらいなら、そんな痛さはがまんできる痛さです。ほんとうに痛かったら、恥も外聞もない。人から笑われることなどなんでもないはずです。
 吃音者にいいます。
 どもったらなんだ。それがどうだというのだ。それが恥ずかしかったら、いつでも、どこでも完全に話すことをやめなさい。
 どもりどもり、喋りなさい。中味さえよければどもりは雄弁よりももっと雄弁となるのだ。どもりは“金”である。雄弁は“銀”である。
(4)「吃音を治す努力の否定」について
 吃音をなおすための努力とは、生きてゆく情熱をもつこと、歴史をつくる情熱をもつこと。吃音など無視し、忘れはて、それを“否定”すること。その“否定”が吃音そのものを“否定”する結果となるのだと思います。“否定の否定”という弁証法を学んで下さい。
 ネズミを捕えるためには、ネズミにえさをやって、ネズミを生かしておいて捕えるのだ。こちらを“否定”して相手を“否定”するのです。以上
 皆さんのいい話し合いに生きる確信をもつことが問題になるよう、その成功を切念します。どうぞ、お元気で。
(第2回吃音ショートコース報告集 1974.8.7〜11 大阪教育大学特殊教育特別専攻科)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/7/6