小島信夫さんの小説『吃音学院』

 大阪教育大学特殊教育特別専攻科の集中講義「吃音ショートコース」の事前学習として吃音の著名人に送ったアンケートの続きを紹介します。作家の小島信夫さんです。
 朝日新聞の1991.4.1の記事も合わせて紹介します。

小島信夫さん(作家)
 私の小説『吃音学院』をお読み下さったと思いますが、あれは大阪の桃山あたりにあった吃音学院をモデルにしたものです。私は、昭和七年中学卒業したとき、二週間か、二十日間か、忘れましたが行きました。そのときの経験をもとに、ずっとあとの戦後の話として書いたもの。小説ですから、小説として読んで下さればよいのですが、ポイントは勿論経験をもとにしています。「悩み」のことですが、あそこに書いてある通りです。
 戦争中は、将校になって号令をかけることなどいやで、兵隊で終ってよかったと思っていました。さあというときに、とっさに号令が出ないと困りますからね。もっとも私は、学生時代(高校)「教練」がイヤで休み、不合格でした。大学では、教官に不合格にしてくれといいに行きまし、私はそれほどヒドイ吃音ではありませんでしたし、家庭教師もしていましたし、卒業後兵隊になるまで中学の教師もしました。
 吃音学院から帰ってからも、なかなか思うようには治りませんでしたが、結婚(学生時代)してから、家の中ではほとんど吃音は意識しなくなり、戦後年をとると同時に、次第に吃音であることも忘れるようになりました。
 ですから、私の話は夢中になると口を十分にあかないから、相手はききぐるしいとは思いますが、吃るわけではありません。そしてこれは、気をつければ何とでもなることですが、そのことも大体忘れてしまいます。というわけで、講演も度々やる有様です。
 いずれにせよ、私は吃音になり易い性質、体質を具えていたと思います。
(第2回吃音ショートコース報告集 1974.8.7〜11 大阪教育大学特殊教育特別専攻科)



自分と出会う 「私を苦しめた病気」の正体     
 小島信夫(作家)  朝日新聞 1991.4.1
 私は昭和7年3月4日夜、姉に見送られて大阪へ出かけた。翌日は中学校の卒業式だったが、私は桃山にあった吃音学院に入ろうとしたのであった。私は姉や母に相談して許可をもらった。17歳になったばかりで、恥ずかしい盛りだった。
 当時も私は、自分が発声に障害のあることに気づいたのは、母親の背中に負ぶさって廻灯籠を見ながら、母親に親に感想を伝えようとしてできなかったときだと思っていた。ほんとかどうか分からないが、とにかく、その頃からずっとそんな病気をもっていて、それは本人の私が明かさなければほとんど知られずにすむことであった。そんなわけで言いたいことも黙っていた。
 吃音学院の矯正期間は二十日間で、その矯正方法もなかなか興味ぶかかった。終わりに近づくと、いろいろな実地訓練をした。相手の迷惑を無視して電話をかけてみること。駅前や盛り場で、自分が吃音者であるということを告白すること。その心づもりは、世間の人間を石ころだと思え、ともいうことだ。私は一理あると思った。
 いよいよ卒業式の前日、今いった演説を神戸市で終え、桃山へ戻ってきて打ち上げのかんじで食堂に入った。そこまではしあわせだった。ところが代金の支払いになって、店の者が院長先生が出したお金が不足しているといった。そんなことはない、「みんな、そうだな」と、先生は私たちを見て激しく言い返した。私はよく観察していたとみえて、「先生、たしかに店の人のいう通りでしたが」といった。院長はそのまま押し通した。先生は「おれはお前たちにわざとやって見せてやったのだ。お前のような小心では、永久に吃音は治らんぞ」といった。私はその学院でも優等生のつもりでいたものだから、落胆した。たぶん先生は、強引に間違ったことでも押し通す極意の伝授を行おうとしていたのだろうか。
 私はそのとき、院長に、「私がうっかりしていたのです」とでも、いえばよかったが、言いそびれてしまった。私は帰宅後、吃音矯正練習を繰り返し実行したり、先生の教えのように、人間を石ころと思うようにつとめたことがあった。しかし実際には、思春期に入ったので、いよいよ私は世間なり友人なり、とりわけ異性を理想化するようになった。そうして石ころと思うどころか、むしろ人間は巨大にふくれあがり圧倒された。時にはそのことの方が悦(よろこ)ばしいくらいだった。
 それにもかかわらず、どういうぐあいか私の病気は、ある時から自覚がうすれ、また不意に戻ってきたりなどくりかえしつつ、そのうちに完全に自覚が消えたかに見えるようになった。吃音矯正法の実行とは無関係のようだ。その点からいうと、あの二十日間の生活はあまり意味がなかったかもしれない。しかし、あのときの〈禅〉めいた訓(おし)えや、あの出来事や、私の感じた一種の無念さなどは記憶にとどまっている。というのは自分の生活の一瞬々々が、あのときの揺れと似ているように思えるからだ。それにしても少年時代、青年時代の何年間にわたって私を苦しめたあの病気の正体は、果たして何であったのか。たぶん、それもまた形を変えて私の中にちゃんと残っているのであろう。
  小島信夫
1915年岐阜県生まれ。東大英文科卒。54年発表の『アメリカン・スクール』で芥川賞を、65年の『抱擁家族』で第一回谷崎潤一郎賞を受賞。大作『別れる理由』や評論『私の作家評伝』など著書多数。82年、芸術院賞受賞。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/7/5