どもる人は、耳の中で二度、自分のことばを聞く

 日本吃音臨床研究会の月刊紙『スタタリング・ナウ』に編集部の松本進さんが紹介してきた羽仁進さんの記事、今回は、どもる人の心理について紹介しています。

§ 吃音者の心理
 映画監督である羽仁さんは、名優や人気俳優ではなく、カメラをむけると逃げていってしまうような人に親しみがわくという。なにかうまく表現できない人、表現がつっかえている人にひかれ、そういう人たちを出演者にして映画を作っている。
 映画「不良少年」の出演者は、街の中でいわゆる「遊んで」いた少年たちであり、「絵を描く子どもたち」の出演者は、白い画用紙を目の前にして、怖くて絵の描けなかった小学一年生である。
 羽仁さんは『演技について、俳優、つまりいわゆる「演技者」の「演技」よりも、むしろすべての人間が生きている、ということのなかにある演技について考える。こう考えるようになった一つのキッカケは、個人的なことであったかもしれない。吃音者、つまりどもりであるという、自分自身の個人的な体験から出発したのかもしれない』(「人間的映像論」中公新書)として、吃音者の心理について考えている。

 
『どもりは、あらゆるコトバにどもるわけではない。吃りそうに思われるコトバあるいは音がある。しかも、面倒なことに、吃りそうになる音やコトバは、いつも同じではない。そのときどきの自分と周囲の状況でちがう。だから、とめどもないどもりを、防ぐためには、特別な努力が必要だ。その努力なしにでは、聞く人には、まるでわからないどもりの洪水しか発声されない。なんとかしなけれはならないのだ。
 その努力は、実際の発声とほとんど同じ、わずかに先立っておこなわれるのがいちばん望ましいことになる。こうして、どもりは、耳の中で二度、自分のことばを聞くことになるのだ。
 一度は、ほんとうに発声するまえに、心の中でしゃべるのを聞いて、吃りそうな音をえらびだし、それを他の音におきかえて、できるだけ吃らないようにつとめる。
 二度目に、ほんとうにしゃべっている言葉を、それでもなお吃らないかと心配しながら、期待と怖れをもって聞くのだ。
 せっかくの努力にもかかわらず、やはり吃ってってしまったとしたら、結果は悲惨である。しかし、どうやら無事に、軽いどもりで、すんだからといって、けっして、心は晴れない。相手の人は、なんとか、こちらの言葉を理解したと、満足してくれても、こちらの心には、空しさが、重くのこってしまう。
 それは、言いかえのためである。一度目に、心の中で言ってみたコトバの中から、吃りそうな危険のあるコトバは、別のコトバに変えられている。音は、心の中で、危険な障害物のように明滅する。
 激流を竿一本で下るいかだ乗りのように、どもりは危険な音を一瞬のうちに避けなければならない。避けることは、つまり、より安全なコトバに、言いかえることだ。
 だが、言いかえたコトバは、けっして、自然に心の中にうかびあがってきたコトバではない。あの言葉は、俺が最初に思いついた言葉ではなかった。にせの言葉、いつわりの言葉にすぎないではないか。
 一度、この空しさを知ってしまうと、いつでも、その重さが、ついてまわる。
 心の中に思いついた言葉を、そのまま口に出せたこともある。それでも、だめなのだ。ほとんど本能のように、こう考えてしまうのだ。「この言葉も、もし、吃りそうだと思えたら、べつのコトバに言いかえられていたろう」。言いかえることは、ウソをつくことなのだ。俺はウソつきなのだ。もし、ウソをつかなければ、俺の言っていることは、誰にもわからない。誰にもわからない人間であるか、ウソをつく人間であるか、その二つしか、俺には生きていく方法がないんだ。
 極端に考えれば、そういうことになる。ウソ、といっても他人をだますよりは、自分に対してのウソである。だから、よけいにへんな空しさがっいてまわる』
                (「人間的映像論」)
          「スタタリング・ナウ」1995.1.20 NO.6


 羽仁さんが言う、どもる人の心理は、どもる人なら共感して受け取ることでしょう。
「激流を竿一本で下るいかだ乗りのように、どもりは危険な音を一瞬のうちに避けなければならない」とありましたが、羽仁さんのように頭の回転の速い人は、このような経験になるのでしょう。僕の場合は、激流ではないにしろ、一瞬のうちに「どもるか、どもらないか」をキャッチします。そして瞬時に、別のことばに言い換えています。自分で考えてもそれは見事だと思います。21歳の夏までの、吃音に深く悩んでいた時は、羽仁さんと同じように、どもることもさることながら、この言い換えに嫌悪感をもっていました。罪悪感といってもいいでしょう。しかし、「どもる体」になることができ、ある程度平気でどもれるようになってからは、ことばの言い換えにも悩まなくなりました。言い換えられるときは言い換えればいいし、言い換えることができない時は、素直にどもればいい、そう考えられるようになってからは、ずいぶんと楽になりました。
 「どもってもいいし、どもらなくてもいい」。ことばを変えれば、どもる僕たちには、「どもる権利」も「どもらない権利」もあるのです。ことばを言い換えることに自由になることで、とても生きやすくなると思います。それにしても、映像作家としての羽仁さんの表現はおもしろい。激流の例えは、映像になりそうです。
 次回で、このシリーズ一応の終了です。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/05/19