大先輩・羽仁進さんの青春(2) 初恋と自由学園

 『スタタリング・ナウ』に掲載された、編集部の松本進さんの、羽仁進さんの紹介の続きです。羽仁さんの初恋の話はとても共感できます。羽仁さんは4年生の時でしたが、僕の初恋も小学3〜4年生頃だったと思います。当時から映画が大好きでしたが、三船敏郎の「宮本武蔵」のお通役の八千草薫さんが大好きでした。好きになった彼女が八千草薫さんにとてもよく似ていて、吃音に悩みながらも、彼女の横顔を見ることができることが、かすかな救いでした。羽仁さんの初恋と、自由学園について紹介します。

§ 初恋
 羽仁さんは、祖母、羽仁もと子が設立した自由学園に入学した。そこでは、初恋もした。

 『四年生ごろから、ぼくはクラスのなかの一人の女の子を意識するようになり、しだいに好きになっていった。このときほど、自分のどもりがつらかったことはなかった。
 ぼくはなんとかして、彼女と仲よくなりたかった。彼女を意識するようになってからは、一度も声をかけることができなかった。仲よくなるには、まずこちらから声をかけなければはじまらない。彼女はぼくのことなどまるで眼中にないかのようで、向こうからぼくに話しかけてくることなど、考えられなかった。
 ぼくは、何度も、今日こそ彼女に話しかけようと心にきめて学校に行くのだが、いざとなるとどもってしまいそうで、どうしても実行できなかった。
 普通の学友に対しては、どもりながらでもどうにか話しかけられるのに、彼女に対してだけは、どもることが非常に恥ずかしくて、声をかけるどころか、近づくことさえできなかった。
 どうして、ぼくはどもりなんだろう。
 どもりに生まれついた自分が、うらめしかった。情けなくて、情けなくて、たまらなかった。
 なにも流暢にしゃべれることを望みはしない。ごく普通でいいんだ。さもなければ、ほかの子に対してはもっとどもってもいいから、少なくとも彼女の前だけではどもらないようになりたい。
 悶々とする日がつづいた。しかし、結局、片思いのまま、初等部卒業まで、彼女とはちゃんと言葉を交わすことがなくて、終わってしまった。』(「自由学園物語」講談社)


§ 自由学園
 自由学園は武蔵野にあり、生徒自ら運営するという方針が貫かれている。生活は自給自足の寮生活である。初等部を終了すると、栃木県那須の雑木林を開墾した農場で、生徒は一年の約三分の一を交替で過ごす。大雨が降れば洪水が襲ってくるような、地元の農家でさえ手をつけなかった土地を石や大木の根を掘り起こし、治水工事までして農場にしてゆく。武蔵野から那須へ行く鉄道の切符も、生徒自身が手配する。戦争が始まり、国民のいろんな生活が統制されていく中、切符もだんだん入手できなくなる。特に国家主義的な教育をしていない自由学園は目の敵にされ、余計手に入らない。
 ちょうどそのころ、羽仁さんが切符を入手する役に当たった。こういう困った状況でも、生徒は自らの責任で何とかせねばならず、羽仁さんは生徒の父兄である私鉄の社長に相談に行ったり、鉄道省へ交渉に行ったりする。
 そして、こういう苦労が「どもりの僕を救ってくれた」という。

 『たしかに、上野駅の駅長のところへ行けば、それでなんとかなるというものではなかった。はじめは、とりつく島もなく、追い返された。
 上野駅まで何度もかよって、自分たちがやっている農場は、決して遊びではないのだということを、繰り返し繰り返し、申し立てた。畑などできそうもなかったところを開拓し、川の氾濫をくいとめ、みんなで耕してやっと作物ができるようになったのだと、農場開拓のいきさつまで話して、説得した。
 こういったやり方は、僕自身にも大変にブラスになったようだ。というのも、僕はひどいどもりだったから、普通の学校へ行っていたら、おそらく、ほとんど口をきかない人間になっていただろう。
 責任をもたされて、外に出ていけば、いやでもしゃべらなければならない。必要とあらば、私鉄の社長だろうが、役人だろうが、駅長であろうが、訪ねていって、こちらの主張を訴えなければならない。どもりだからといって、黙っているわけにはいかないのだ。
 たしかに当時の僕は、そうした交渉ごとが、いやでたまらなかった。できればしゃべらずに、動物とつき合ったり、本を読んでいるほうが、どんなにいいかと、思っていた。
 しかし、いまにして思えば、別にどもりを積極的になおそうとはしなかったが、やはり交渉のときは、どもらないようにがんばり、どもりながらでも、わかりやすくいえるように工夫したおかげで、充分にしゃべれるようになった。
 しゃべり方はいまでも下手だが、しゃべることがきらいではなくなった。
 外部との交渉だけでなく、全校生徒の前でしゃべらされる機会も、非常に多かった。
 初等部時代に、うさぎ飼育の委員になったときも、毎日の情況を報告しなければならなかったし、なにか問題があれば、その報告会が責任追及の場にもなりかねないので、そこら中を駆けずりまわって、なんとかうさぎの死因をつきとめようと、必死だったのである。
 那須行きの切符のときも、委員長から、「なぜ切符がとれないんですか」と問われて、「わかりません」ではすまされなかった。したがって、まず、なぜ切符がとれないのかを調べなくてはならなかった。
 それがわかると、ではどうしたらいいかということを、自然に考えるようになる。報告会の席で、「なにもしませんでした」ではすまされないからた。それで「今日は私鉄の社長に会ってきました。その結果は・・」とか、「今日は鉄道省の部長に会ってきました。それによると…」などと、毎日のように報告させられる。
 切符がとれるまで、ずっとそんな調子だから、いやでもつぎの対策を自分で考えなければならないし、その結果を全生徒の前でしゃべらなければならない。
 無口ではすまないような仕組みになっていたのである。』 (「自由学園物語」)


 その後彼は、学園運営の最高責任者ともいえる委員長に立候補・当選し、学園改革の先頭に立ったりもしている。かなり目立つどもりを持ちながら、少しも臆せず(ように見える)、テレビに出る羽仁さんの勇気、態度の源はこの自由学園で培われたにちがいない。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/05/18