羽仁進さんの青春(1) 父親のこと

 日本吃音臨床研究会のニュースレター「スタタリング・ナウ」1995.1.20 NO.6で、執筆者である編集部の松本進さんは、【どもりの子は、「どもり」と呼べ】の項目の後、父親の紹介へと広がっていきます。
 
§ 父
 有名な歴史学者であり、反戦運動家だった父、羽仁五郎氏は息子を平気で「どもり」と呼び、からかった。この率直なからかいが、進氏の吃音の受容を容易にさせたという。幼児期の環境を重視する今の時代なら考えにくいことだが、羽仁進氏と羽仁五郎氏と、どんな父子関係だったのだろう。
 『新・家族論』(三省堂)によると、特高警察の尾行をまくのに、幼い息子をつれた団らんと見せかけるため連れ歩かれたという。そして、暗くて寒い会合場所の店で、長時間待たされ続けたのは相当の苦痛だった。幼いころから父のためにひどく苦労させられた羽仁さんは、次のように書く。
 『当時の私が、父にあまり、なついていなかったことは、まぎれもない事実だ。普通の意味での親愛の情は、決して深いとはいえなかったろう。それにもかかわらず、私はある強い感情を父に対して抱いていた。
 それは、崇高さ、に対する感情というのが、もっとも適切だろう。
 もちろん、このことを父に話したりはしなかったが、父が知ったとしても、とても信じる気にはなれなかったであろう。当時も、その後も、私が読みつづけた本は、神話学でなければ『聊斎志異』や『紅楼夢』であったし、父には義母にあたるが、思想的にはことなる羽仁もと子の自由学園での教育にもっとも強く影響をうけたのも兄妹のなかで、私であった。つまり、あらゆる意味で、父にとっては望ましくない方向に進んでいったのが、私だったからである。
 しかし、私にとって、崇高という気持ちをはじめて実感させてくれたのは、父であった。私は、祖母を尊敬した。強い意志、たくましい実行力、燃えるような個性。しかし、気高さ、というものが実際に存在することを教えてくれたのは父であった。
 父が死んでしまったいま、もしも父と私のバランスートというようなものを作るとすれば、実際的にはまったく私の支払い超過なのだろうと思う。五十年のあいだ、物心両面で、私が父に払った犠牲、かけられた迷惑は、数える根気もない。しかし、私は、羽仁五郎を、父にもった幸運を、感謝したい気持ちで一杯である。
 人間にとって、本当の気高さを感じさせる人にめぐりあうというのは、特に現代のような時代では、暁天の星を数えるほどのチャンスもないであろう。一生、そのような体験をしないで終わってしまう可能性の方が、はるかに高いのだ。その点で、私の父に対する判断は、幼い時から、一貫して最後までかわらなかった。ありがたいと思うほかはない。』(「新・家族論」)


 父親の羽仁五郎は、羽仁進の著書『放任主義』裏表紙に、二人で並んだ写真とともに、羽仁進のことを次のように紹介しています。

 
  著者・羽仁進のこと  歴史家 羽仁五郎  
 羽仁進は、独立心の強い子どもだった。農芸化学者に育ったらよいという、ぼくの示唆、自由学園を継いでほしいという、祖母の願いにも耳を傾けていた彼は、静かに、しかし確かに、自分の道を歩み続けていった。彼とぼくは、いま仕事もちがうし、考えもちがう。ときどき会うと、ぼくたちは議論する。その議論は、ぼくにとっても有益である。
 僕と妻・羽仁説子とは、彼を大学で学ばせなかった。彼自身が現実の中で体験し、学んでいくことを信頼したからである。一昨年ぼくは、ぼくが青春時代に学んだハイデルベルヒを、ふたたび訪れた。映画館で彼の映画が上映されていることを、古い友人が教えてくれた。映画をみたあと、友人は、彼の作品について書かれた研究論文をいくつか貸してくれた。ぼくはそれを読み、彼が自分なりの道を切り開いている、自由で、執拗な精神に感心した。彼がどうやって自己を形成したと、自分で考えているか、ぼくは、興味をもっている。
『放任主義』(光文社)


 次回は初恋についてです。

 日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/05/17