羽仁進さんと吃音者宣言

羽仁進4 吃音の先輩で、羽仁さんほど僕と考え方の近い人はいないと思います。吃音を否定しない人でも、羽仁さんのように「吃音の豊かな世界」とまでは言いません。吃音を全肯定しているのは、おそらく羽仁さんと僕くらいでしょう。
 日本吃音臨床研究会のニュースレター「スタタリング・ナウ」で、人シリーズとして、古今東西の各分野で活躍している、あるいは、活躍していた人を取り上げていました。第一回として紹介したのが、羽仁進さんでした。その号の僕の巻頭言を紹介します。

 羽仁進さんと吃音者宣言

 羽仁進さんは、私たちどもる人間にとって、特別な存在だ。現在もどもり続け、それを隠すことはない。むしろ、どもることばこそ、人間のことばだといいたげに、誇らしげにどもっておられる。
 どもる人間の生の姿をさらけ出すだけでなく、私たちの活動をよく理解し、ご自分が出演した番組や、著作などを通して、私たちの主張を正しく伝えて下さっている。
 私たちへの誤解が未だに少なくない中で、直接接する機会のあまりない、羽仁さんが何故こうまで、私たちを的確に理解して下さるのか。
 羽仁さんの生きる姿勢と、私たちの「吃音者宣言」の底に流れる考えが、共通するからだと思う。
 それを二つのことばに絞って紹介しよう。
 一つは、『悩み方には、まともな悩み方と、奇妙な悩み方がある』とのことばだ。
 「苦悩は、人間にとって、業績である」との、フランクルのことばを紹介し、次のように言う。
 『失敗や、いやな思い出は、それだけでは、人間の心の財産にはならない。しかし、それを、しっかりと悩み抜き、考え抜いた結果は、すでに、その人を豊かにしている』
 悩み方にまともなものと、そうでないものがあるという指摘は、私にとって新鮮だった。どもりに悩んでいた頃の自分を当てはめたとき、随分まともでない悩み方をしてきたものだと思う。したいこと、しなければならないことも、少しでも困難を感じると、どもりを口実に逃げた。何かにぶっかって、失敗したり、挫折して、悩むなら、その悩みは後で生きる。私は、あらゆる場面から逃げて実際の行動をしないのだから、大きく傷つくことはないが、逃げたこと、出来なかったを悔やんだ。この自分の意に反した行為に対して悩むのは、羽仁さんの言う、奇妙な悩み方になるのだろう。こんな悩みは業績にはならない。 どもりに悩み、どもりにとらわれているどもる人の多くが、私と同じような悩み方をしていることを知り、「吃音者宣言」のキーワードとしての《逃げの人生》を、私は次のような表現で入れた。
 『どもりさえ治ればすべてが解決するという自分自身への甘えから私たちは人生の出発(たびだち)を遅らせてきた』
 どもることで辛い体験をしてきた人に、少しきびしいことかもしれないが、「私たちがどもりについて悩んできた悩み方は、まっとうな悩み方だったのだろうか?」と、自分にも他者にも問いかけたのだった。
 あと一つは、『放任主義』(光文社・KAPPA BOOKS 1972年)でよく知られている『どもりの子はどもりと呼べ』だ。これはそのままに「吃音者宣言」に結びつく。
 どもる子どもに、どもることを意識させてはいけない。だから、家庭では、一切どもりを話題にしてはいけない。長い間これが金科玉条のように信じられ、今でも根強く残っている。どもりを隠し、話題にしないで、子どもがどもりを受け入れることなどありはしない。私自身、どもりということばに嫌悪し、“いもり”“やもり”にまでびくついていた頃に、どもりの受容など思いもよらなかった。民間吃音矯正所で、初めてどもりということばを口にし、他者がどもりと言っているのを耳にした。
 自らの問題を見つあ、受け入れるには、自らのことばで、その問題を口にすることが第一歩だ。吃音受容を吃音問題にとって、最も重要なテーマだと考える私たちは、「どもりをオープンに話題にしよう」と提起し続けてきた。それが、私たちが提唱する《どもる子どもへの早期自覚教育のすすめ》だ。
 羽仁さんの『どもりの子はどもりと呼べ』は、私たちの《早期自覚教育のすすめ》そのものだとも言える。
 このように、羽仁さんの生き方、ことばが、形は違っても、「吃音者宣言」に生きているのだ。
               「スタタリング・ナウ」NO.6 1995.1.20


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/05/15