「サルになった男」間直之助 4

 間直之助の著書「サルになった男」(1972年 雷鳥社)の中に、自分自身について書いているところがあります。詐蓮.汽襪箸梁佻叩,任后A簡犬鮠匆陲靴泙后

サルになった男の本の表紙
 「日常の会話や電話のごとき文明の利器に対してさえ、恐怖の毎日を送らねばならぬわが身の境涯を歎いてばかりいた。(中略)人間社会では最大のコンプレックスの種だった短所が、動物の世界での対話では、最大の長所であり武器であることに気づいた」


 この部分が特に僕の胸に響きます。僕も21歳の夏までは、言葉では言い尽くせないほどに吃音に支配され、悩んできました。しかし、吃音を認めて生きようと覚悟を決めてからは、吃音のおかげで学べたこと、知り合うことができた人々などたくさんあります。どもる人の世界大会を世界で初めて日本で開くなど、なかなか経験できないことをたくさんしました。僕にとっても、吃音は最大の長所だと言えます。また、国際吃音連盟の活動で仲良くなった、ミュージシャンのスキャットマン・ジョンも、吃音という最大の欠点が、最大の財産になったと言います。
 僕の場合、吃音はいまだに自分の力ではコントロールできません。しかし、自分の人生は自分の力でコントロールできます。自分で責任がとれるのです。間直之助さんの体験もそのひとつです。「サルになった男」には、間直之助さんのサルへの限りない愛と、吃音との和解のドラマがあります。 

サルとの対話
 「サルと話をしたり、仲好しになるのには、どうすればよいのですか。秘訣を教えてくれませんか」というような質問を私はよく受ける。私とサルやほかの動物に関する話題が、ときどき新聞や放送などに出るからである。私はそのたびに、途まどってしまう。というのは、あとで述べるように、私には人間の社会にはいりこむよりも、動物と親しくなるほうが気楽な事情があるために、仕方なくそうなったのであって、決して自分から好んでそのような境遇にとびこんだわけではなかったからである。
 
孤独から言葉なき世界を求める
 実のところ、私は小学校に入学してまもないころ、どもりをまねて本もののどもりとなり、以来、半世紀以上もの間、このことからの劣等感に悩まされつづけてきた。言語障害である。そしてこのことは、図らずも言霊(ことだま)の人間社会から言葉なき動物の世界へと、知らず知らずのうちに私を追いやる原因となった。
 私は四歳のときに母をうしない、父も鉄道建設という事業の関係で留守がちという家庭に育った。明治三十七、八年の日露戦争のあと、疫病が流行したが、父はこれにかかり、そのまま再起できず、別府に隠退した。それで私も、父の事業の本拠の下関から父について別府へ移った。
 別府では、サルのすむ高崎山が目の前にそびえていた。海ぎわから直接力ーブを描いてそそり立つこの山は、東洋のジュネーブといわれた別府湾の風光に、またいっそうの美しさを添え、私は毎日この山を眺め、この山のふもとを往復して大分中学に通った。そのころからすでに、サルは高崎山の表徴として有名であったので、私も一度そのサルを見たいと思い、たびたび山へ登ってみたけれども、ついにその望みは果たせなかった。
 別府の温泉と風物は、よほど私の身体に適したと見え、生来虚弱であった私も非常に健康となった。しかしそれだけでは、心の孤独はいやされない。父は長く病床に伏したまま、やがて失意のうちに世を去った。
 私は孤独と言語障害のために、おのずと人との交わりを避けて、ますます野や山で自然や動物に語りかけて過ごす日が多くなった。当時はまだ、どこにでも美しい自然や心を慰めてくれる植物がたくさん見られた。
 大学は、迷うことなく東大の動物学科を選んだ。しかし、そこは完全に私の期待に反した。剥製やフォルマリン漬けの動物の標本はあっても、生きた動物はいなかった。実習や実験といえぱ、動物の死体を解剖したり、動物を殺傷したりしなければならなかった。だから私は、よくゼミや実習をさぼって、こっそり近くの上野動物園に出かけて行った。生きた動物だけが、私を慰め、心をなごませてくれたからである。
 このような私は、教授からすれば、もてあましものの学生だったに違いない。そしてついに、卒業審査のとき、指導教官から動物学者失格を宣告され、早々に郷里の別府に引きあげた。そうしたら、卒業証書が、あとから郵送されてきた。
 その年、関東大震災があり、そのあと京都遷都の噂が出はじめ、何もかもが京都へ京都へとなびく時代となった。また当時は西田哲学全盛の時期でもあって、私もこのようなことから京都にきて、京大哲学科にはいりなおしたのであるが、このことは、私に終生の幸いをもたらすこととなった。それからの数年間、私は西田幾太郎、田辺元両教授に師事する一方、わが国の動物生態学、動物心理学の創始者である川村多実二教授に、動物を殺傷しなくても研究できる"生きた動物学"や、鉄砲にかわるカメラ・ハンティングについて教わることができたのである。
 昭和八年の夏には、ドイッのハーゲンベック・サーカスがわが国を訪れた。このサーカスの動物たちに何とかして親しく接してみたくなり、とくに頼んでサーカスの楽屋で毎日動物たちと生活できるように取りはからってもらった。こうして毎日、サーカスで過ごしているうちに、私はふと人と動物との間には、言葉によらないコミュニケーションがあること、つまり、心と心がじかに触れあう対話のし方が存在することを悟った。そのとたん、楽屋裏でいっしょに暮らしていたライオンもトラもゾウも、私が彼らのそばを通るたびに私に語りかけているらしいことに気がついた。どんな辞書にも載っていない言葉なき彼らのことばによってである。人間同士でさえ、現代科学の粋をもってしてもまだ解明できない脳波のごときものが存在するくらいだから、"言葉なき動物の言葉"の存在も、あながちありえない話ではないと、私はそう信じ、この事実を具体的に立証することを終生の使命と心得るようになった。
 何はともあれ、私のサーカス生活のチャンスは、終戦後まもなく、もう一度訪れた。オール・アメリカン・サーカスという、ハーゲンベックに劣らぬ大サーカス団が、アメリカ進駐軍の慰問を兼ねて来朝したのである。このときは、チンパンジーも新たに加わったので、興味はさらに倍加して非常に楽しく、傷病兵慰問興行に参加したり、平沢興京大医学部教授(のちの京大総長)にもきていただいて、医学上の見地からの教えを受けたりもした。
 実のところ、私はそれまで、自分が言霊の世界から見放されて、日常の会話や電話のごとき文明の利器に対してさえ、恐怖の毎日を送らねばならぬわが身の境涯を歎いてばかりいたのだけれども、よく考えてみれば、この半世紀もの長い歳月を、文化人類社会からはとうてい学びとることのできない動物的コミュニケーションの方法を会得するよう、強制的に訓練させられてきたようなものであった。人間社会では最大のコンプレックスの種だった短所が、動物の世界での対話では、最大の長所であり武器であることに気づいたのである。私とサル、私と動物とを結びつけてくれた最初のきずなが、この言語障害だったのだ。だから今では、このような生き方を少しも悔むことはないと悟った。
 そうと気づいたからには、サルと仲好しになる秘訣に対する私の答えは決まったも同然だ。つまり、「いまもし、人類の前から、言葉や文字という便利至極な方法が突然消え去って、どうしても動物的コミュニケーションに頼るのでなければ生死にかかわるというような事態が起こり、また人類が金銀財宝や地位、名声などという人工的虚名に対する執念や愛着をさらりと捨てて、自然のままの童心にかえることができるならば、サルとの心の触れあいは、もっと深く、愛情ゆたかなものになることでしょう」というのが私の答えである。
 以上のような次第だから、私のこの書は、人間の立場からだけでなく、サルや生命あるすべてのものの立場をも考えて読んでいただきたいと願っているのである。
「サルになった男」(1972年 雷鳥社)P.228〜P.232


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/5/11