吃音を生き抜くための 吃音Q&A 


 前回のつづきです。
 午後7時頃から始まった大阪吃音教室の講座は、9時には終わります。あっという間に、2時間が過ぎました。
 吃音Q&A 4録画をしてくれていた、映像プロジェクトの井上詠治さんが、今、大変な編集作業をしてくれています。吃音の奥深さ、豊かさを実感した時間でした。
 では、最後の質問を紹介します。



6.どもる自分が好きではありません。どうしたら、好きになれますか。

 「どもる自分が」ということだと、どもらなかったら自分が好きなの?と返したくなってしまいます。
 どもる、どもらないにかかわらず、自分が自分を好きでない人という人はとても多いようです。どもる自分を好きになろうとして、そのことを目標にすることはありません。「どもる自分」という条件を外しましょう。
 人が「自分が好きだ」、少なくとも「嫌いじゃない」と思える時はどんなときでしょう。
 夢中になれることをしているとき、すばらしい自然の中にいるとき、おいしいものを食べたとき、人は幸せだなあと思います。好きなことに熱中することなどの、日常生活のささやかなことの積み重ねで、自分のことを嫌いにならないようにしたいものです。それにプラスして、仕事でも、趣味でも、近隣の人でも、同窓生でも、仲間がいることが大切だと思います。

 
7.どもれない体から、どもれる体になったと伊藤さんは言うけれど、どういうことですか。

 昨年末に金子書房から出版した「どもる子どもとの対話」の中に、どもれない体からどもれる体になったと書きました。この気づきのスタートは、滋賀県東近江市のことばの教室で、子どもたちと対話をしたときです。子どものひとりが僕に質問をしました。
 「伊藤さんは、どもることで困ったのはいつですか」と。
 子どもは小学生時代に音読や発表で困っただろうと想像したのでしょう。僕は、困ったことはなかったと答えました。そして、なぜだと思う?と問い返しました。子どもは、「どもらなかったから?」と考えながら答えました。どもらなかったから、困ることはなかった、そう考えるのは当然ですね。でも、違うのです。僕は、どもるのが嫌で、音読や発表をしなくなり、人前でしゃべりませんでした。どもる人間でありながら、しゃべらなかった、つまり、どもらなかったのです。だから、困ることはなかったのです。もちろん、悩んだり、悔しい思いはしていました。僕は、どもれない体だったのです。
 もうひとつ、伊藤亜紗さんが、「どもる体」という本を出版し、その出版記念のトークイベントと、東京大学・先端科学技術研究センターでのイベントで講演したとき、僕の東京正生学院での30日間の体験の意味づけが変わりました。どもりを治すために行った東京正生学院で、治すための方法を実践せずに、30日間、どもりながらしゃべりました。どもりづめだったのです。いっぱい話したことは、どもり漬けだったことで、どもっても話す喜び、心地よさを知りました。それでどもれる体になりりました。
 僕たちどもる人間には、どもる権利が、どもりながらちゃんと生きる権利があると思います。その権利を奪ってしまってはいけないと思います。どもらないように、どもらないようにとしていたら、しんどい。どもるときはどもるに任せる今は、楽です。自然に生きていくのがコツですね。


8.他人が私のどもりに気づかなければ、私はどもりではないのでしょうか。

 昔、「あのー、えーと」などをたくさん入れて、ゆっくりしゃべったら周りはどもりに気づかない。「自分は治っていないと思っても、周りが気づかなければ、万々歳で、その人はもはやどもりではない」と言った、「リズム効果法」を提唱した人がいました。でも、それはあり得ないことです。以前、吃音の定義の定説は、3つの条件が揃ったときだと言われていました。
  “麥暢性があること(どもっていること)
 ◆“語器官、神経系統に何の異常もないこと
  本人がどもると意識していること
 今は、発達性吃音、獲得性吃音と区別をしていますが、脳に異常があるのは吃音とは言いませんでした。失語症のなかで吃音と似た話し方があり「吃様症状」として吃音と明確に区別していたんです。本人が意識していることが条件なので、他人が気づかなくても、本人が意識していれば、吃音です。
 また、治ったかのように見えても、瘢痕は残ります。著名人も、今、治ったかのように思える人でも、吃音であること、どもる仲間であり続けたいという人がいます。スキャットマン・ジョンが有名です。僕たちは、どもるという意識は持ち続けたいし、どもる人だというアイデンティティは大切にしたいですね。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2019/4/23