~どもる人、どもる子どもの保護者、吃音の臨床に当たっている人のための~
    第7回 吃音と向き合い、語り合う 伊藤伸二・吃音ワークショップin東京
         

 「吃音を治すことにこだわらず、どもりながらどう生きていくかを目指そう」と、大阪を基盤に活動している日本吃音臨床研究会の伊藤伸二と一緒に、どもる問題について考えたり話し合ったりする関東地方でのワークショップです。今回で第7回となりました。
 参加者ひとりひとりの吃音の悩み、知りたいこと、体験したいこと、学びたいことに関わり、それを皆で共有するスタイルで進めていきます。
 吃音について深く考えたい方、どもりながら生きていく上でいろんな思いを抱えている方、どもる仲間とじっくり話したい方、吃音の臨床に当たっている方、日本吃音臨床研究会の活動に関心があっても大阪まではなかなか行けない方、この機会にぜひご参加下さい。

 内容は参加者の要望によって組み立てますが、次のようなことが考えられます。

◇吃音を生きる、論理療法、交流分析、認知行動療法、アサーティヴ・トレーニング、ナラティヴ・アプローチ、当事者研究、レジリエンス、ポジティヴ心理学などについて
◇吃音で苦戦している問題についての具体的対処
◇どもって声が出ないときの対処・サバイバル
◇吃音を治す言語訓練に代わる、日本語の発音・発声のレッスン
◇今、困っていること、悩んでいることの課題を明らかにし、展望を探る、公開面接<対話>
◇吃音の臨床で直面している問題や、考えたいこと
◇当事者研究の手法を用い、やりとりをしながら、今後の対処を明らかにする
         
□日時 2018年2月12日(振替休日)   10:00〜17:00

□会場 北とぴあ 東京都北区王子1−11−1  TEL 03−5390−1100
      JR京浜東北線「王子」駅北口徒歩2分
      東京メトロ南北線「王子」駅ト崕亳直結

□定員 18名  

□参加費 5,000円…当日、受付でお支払い下さい。

□申し込み方法 
 〔樵亜´年齢 住所 づ渡暖峭罅´タΧ函´ο辰傾腓辰討澆燭い海箸篳垢たいこと О貌伸二・吃音ワークショップを知ったきっかけ
 を書いて郵送かFAXでお申し込み下さい。

□申し込み締め切り 2018年2月8日(木)

□問い合わせ・申し込み先  日本吃音臨床研究会
     〒572−0850 寝屋川市打上高塚町1−2−1526
           TEL/FAX 072−820−8244



 
2013年1月13日、東京都北区の北とぴあで、第2回 伊藤伸二・吃音ワークショップin東京を開催しました。テーマは、『対話を通して、生き方をみつける』です。いろんな話題が出され、おもしろいときにはみんなで大笑いし、しんみりするときはしんみりした7時間のワークショップでした。そのごく一部を紹介します。
                       
 参加者は、遠く熊本県や秋田県から、どもる当事者、ことばの教室の担当者、言語聴覚士が参加しての、総勢16名。濃密な7時間を過ごしました。そのごく一部を紹介します。参加された16人のやりとりの時間もたくさんあったのですが、地方公務員の平野さんと伊藤伸二との対話の中で紡ぎ出されたことばを拾ってみました。

 1時間かけた自己紹介
 ひとりひとりが参加の動機を話していくと、自己紹介だけで1時間。自分と吃音の関係についてみんなで聞き入り、ワークショップの場の共通基盤ができたような気がした。これから始まる濃密な時間を予感させる幕開けとなった。

 治(なお)ると治(おさ)まる
伊藤 吃音は自分の力で治すものではなく、自然に変わる。五木寛之さんの本に、治るではなく、治まるとあった。まさに吃音は、どもることを認めて話していくうちに、治まっていくものだと思いますが、どうですか?
松原 どもりは認めるのは難しいです。やっぱり治りたい。なんで他の人と違うのだろうとか思います。
伊藤 僕も21歳まで認めるなんて考えもしなかった。でも、一旦認めてしまえば、なんで、みんな認められないんだろうと思ってしまうほどです。たとえば、自転車に苦労してやっと乗れるようになったはずなのに、苦労したことを忘れてしまう。パソコンも、上手な人には何のこともないことが、苦手な僕には、とても難しい。似ている気がします。
 吃音は、言語訓練ではなくて、どもって生きる覚悟をいかにするかで、そのための勉強と練習が必要です。アメリカは吃音はコントロール可能と、訓練をしていますが、ほんとに大事な、吃音と共に生きるための覚悟、覚悟するための練習がありません。カナダの大学院を出て、言語聴覚士になり、3年間、働いた池上久美子さんが、北米では、吃音とともに生きる発想がないし、生きることを、誰も教えていないと言っていました。アルバーター大学の吃音治療研究所(アイスター)などに、15年間、500万円をかけて一生懸命訓練をした人が、前よりはどもっているけれど、もうあきらめたみたいだと言っていた。
 
 治ることをあきらめるしかない
伊藤 治る確実な方法があるのなら、がんばってもいいが、100年以上原因も分からず、確実な訓練法もない事実は認めざるを得ない。世の中には、治せないもの、治らないもの、解明できないものは、山ほどあります。その中のひとつが吃音だと考えた方が、どもる当事者としては生きやすいと思います。なぜあきらめられないのか。どうしたらあきらめて、どもる覚悟ができるのか。
 午前中、自己紹介の後、小学校の教師の松原さんが、どもってはいけない場として挙げた、剣道の試合での審判について対話をしました。午後は、地方公務員の平野さんが話題を出しました。

 再び、どもってはいけない場「クマが出た」
平野 午前中、どもってはいけない場などひとつもないと、伊藤さんは言われた。でも、私の中では、自治体の職員として、やっぱりどもってはいけない場面があると思っています。今、それで苦しいんだろうなと思う。私は、決まった原稿を読むのが苦手なんです。最近、私の近所でクマが出たので、「クマが出たので、気をつけて下さい」と、市役所の広報車に乗って言わなければならなかった。決まった原稿なので、やっぱりつっかえながら、それでもやった。それが、どもってはいけない場面だと思います。
伊藤 どうしてですか?
平野 街頭宣伝って、でっかい音で、それをどもりながら話すわけですよ。それはちょっとなあ…と思いながら、私は街宣したんです。
伊藤 どもってやったから、みんな、信用せずにクマに注意しなかったとか(笑い)
平野 それはないです。自分の中では嫌だなあと思いながら、街宣したんです。あともうひとつ、まだ私は経験ないんですけど、今、私の担当している仕事は広報課で、その中で、FM放送で1週間に5分間の番組をもってるんです。私は、担当じゃないんですが、同じ課の中でやっている者がいます。その番組は、1対1で、一人が聞き、一人が答えるということを順番にやる。幸い、まだ私の出番はないんです。私の出番になったとき、どうしようかなと思いながら、ずっと去年から今の仕事をやっている。
 もし、「あんた、出なさいよ」ということになって、FM放送の生放送で5分間、まあそれはいいとして、それを録音して、昼休みに庁舎全部に流すんです。考えただけでぞうっとします。決まった原稿をうまく読める訳はないんです。生放送は終わってしまうから、まあいいとして。でも、それを録音して、庁舎全部に流されるということを考えたときに、いやー、恥ずかしいなあと。それに耐えられるかなあと思うと、午前中の話で、どもってはいけない場面なんて、伊藤さんはないと言うけれど、私の中ではあるんだよなあと思ってしまうんですよね。

 どもってはいけない場と、どもったら嫌だなと思う場 
伊藤 どもってはいけない場面はないと思うんです。でも、区別してもらいたいのだけど、どもるのが、嫌な場面はあるんでしょうね。
平野 そうそう、嫌な場面ですよね。
伊藤 自分が困る場面であって、聞き手である、世間一般が困る場面ではない。それは分ける必要があります。全庁舎に、どもって出演した番組を流していいじゃないですか。
平野 いいんですか。
伊藤 僕は、それが県の職員としては、すごい社会的貢献になると思うんです。つまり、あれだけどもりながら、一生懸命な人がいる。
平野 そういう人間もいるんだと、いうことですか。
伊藤 ああしてどもりながら、一生懸命、「ククククマが出ました。ににに逃げなさい」と広報したりすると、切実感が、(笑い)とは言わないけど、たとえば、老人や障害のある人や、生きることに困難をもっている人が、もしあなたの、どもりながら一所懸命話すFM放送放送を聞いていたら、その人たちがどう思いますかね。これだけどもりながらも、ちゃんと県のためにやってくれている人がいる。流暢にぺらぺらしゃべる広報係の人なんて普通のことで、当たり前でしょ。それに対して、人は何も心を動かされません。でも、どもりながら、仕事をしているあなたの誠実さは、僕たちが社会にできる大きな貢献だと思いますよ。学校の教師の松原さんにも特に言いたいことです。子どもたちの中には、いろんなことで苦しかったり、劣等感をもつ子たちがいる。経済的な困難、人間関係の困難を抱えている子どもたちがいる。そんな子どもたちの中で、教師がどもりながら一生懸命精一杯生きている姿を見せることは、流暢にぺらぺら効率よくしゃべる教師よりは、はるかに教育的な効果としては大きなものがある。先生もがんばってるから、オレもがんばろうと共感する子どももいるかもしれない。
 どもる僕たちの社会貢献は、どもりながら誠実に自分の仕事をきちっとやること。心はざわつくし、決して心地よいことではないかもしれないけれど、心地よくないことをあえてやっていく。ここに人間としての生きようというものがあるのではないだろうか。
 何もしないで生きていければ、それは楽だけれど、それよりはちょっと負荷がかかったり、嫌な思いをしながらでも、そこで自分の仕事やしたいことをするという、これも人間の生き方としてかっこいいでしょう。
平野 かっこいいと感じますけど、やっぱり、庁舎で放送が流れるとき、弁当を食べながらそれを聞いていることを考えると、ざわざわするんです。
伊藤 ざわざわしてもいいけど、それに耐えている自分も立派だと思えるのも、いいですよ。
平野 そこまでいけるかなあ。
伊藤 いけると思いますよ。
平野 そこの折り合いがどうつけられるかですね。
伊藤 それはもうあなたの選択です。
平野 逃げるのも私ですし、向かうのも私だと思うんですけど。今のところ、逃げちゃうかな。その場面が来たら、逃げちゃうかな。
伊藤 逃げようと思ったときに、僕の写真をどこかに置いておくとか、「こら。逃げるな」(笑い)
平野 そうですね。そこですね。
伊藤 おまじないを作って、よし、逃げないでおこうって。

 逃げたときに後悔しない
平野 松原さんの剣道の審判の話も、代わってもらうこともできると思うんです。代わってもらったときには自分の中での後ろめたさも多分あると思う。逃げたくない、できればやりたいけど、逃げると、そこでまた傷つく。やったらやったで、うまくいかなかったときには、また落ち込んだりするし。
伊藤 僕は、基本的には、逃げないでがんばれとは言うけれど、逃げるのも、立派な選択肢だとも思います。僕はハンディだと思ってないけれども、吃音をハンディだと思う人は、他の人よりハンディがあるんだから、何をやっても、しなやかに生き延びた方がいい。生き延びることを目的にすると、逃げることも選択肢です。 逃げる選択をしたときに、オレはなんで逃げたんだろうという後悔や後ろめたさを感じないようになってほしいですね。僕も今でも、小さな逃げはいっぱいあります。言わなければならないことは逃げないけれど、お寿司やさんで、「トトトトトトト」と言ってまでトロを食べなくてもいいかと思って、マグロで済ませる、というような小さな逃げはいっぱいある。
 FM放送で、全庁舎に自分の声が流れることは耐えられないから、悪いけど、代わりに他の職員がしてくれ、僕は一生涯FM放送には出ないぞと、宣言する選択をしても、いいじゃないですか。
平野 そうですね。自分の中で折り合いがつけば。
伊藤 折り合いがつけば。何も言わないで逃げたのではなくて、自分の弱点だと感じている吃音をちゃんと公表して、説明して逃げれば、実績であり、そういう自分を評価していいと思うよ。
平野 黙って逃げたり、風邪ひいたとの言い訳するのとは全然違いますよね。
伊藤 風邪をひいてとか、お父ちゃんが死んだからとか、そういう逃げ方ではなくて、僕は、どもりで、残念ながらみんなのように強い人間じゃないから、耐えられないので、FM放送はやめさせてくれと言って逃げるのなら、逃げたことを正直に伝えたことは勇気ある行動だし、立派じゃないですか。逃げることに罪悪感を感じたり、引け目を感じないで、堂々と逃げればいい。そして、得意な人に代わってもらったらいい。
平野 堂々と話して、
伊藤 そう、堂々と話して、自分の弱さはちゃんと出して、これ、かっこいいでしょ。
平野 それはいいですね。(笑い)それができていなかったと思います。
伊藤 それができたときに、やっぱり人はお互いに弱さを見せながら、弱いところをカバーしながら生きていくのが社会全体が生きていくということだと思いますよ。この人は正直に自分ができないことを言って逃げているんだ。それもいいなあ。じゃ、僕もできないことがあっても、自分の弱さを出してもいいんだと、他の県の職員が思ってくれたとしたら、その人がすごい辛さを持っている人であったら、あなたの弱さはその人に大きな共感と勇気を与えることになりませんか、ね。
平野 合点です、それは合点です。(笑い)

 強くならなくていい、ヘルプを出すことの大切さ
平野 強くならないといけないですね。
伊藤 強くならなくていいんですよ。強くなるのではなくて、弱さを弱さとして認められる。弱い人は弱いままでいい。弱い人間が何も強くなる必要なんてない。弱いことの方が、却って強いですよ、結果としては。だって、弱さを知ってるということは、自分の分をわきまえているということ、できないことはできないと言えること。できないことは誰かに助けてもらう。今の世の中に欠けているのは、助けてもらうというヘルプ、ヘルプミーです。それを子どもたちも言えなくなってるし、教師も言えなくなっている。この、「助けて下さい」ということがすごく大事だと思う。お互いが弱さを認めながら、助けながら生きていく、これが人間が生きていくということじゃないですかね。
  

日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2018/01/25