「吃音の当事者研究」の発表にあたり、気になったことをメールでやりとりしました。少し、わかりにくいかもしれませんが、そのまま紹介します。いずれ、明確に文章化していと思います。

 伊藤
 藤岡さんが小学校高学年で「吃音をコントロールする術を身につけた」という記述は、誤解を受けるかも知れません。アメリカ言語病理学は吃音をコントロールできると言っていますが、僕は、吃音はコントロールできないと言い続けてきました。結果としてコントロールできていることはあるのですが、いつでも、どこでも意識的にコントロールすることはできません。

 吃音をコントロールするとは、「ゆっくり、そっと、やわらかく」発音する、バリー・ギターの流暢性形成技法を身につけてどもらないようにすることなのです。
 藤岡さんのしてきたことは、吃音そのもののコントロールではなく、どもらないようにする工夫ではないですか。僕がそうでした。どもりたくない、どもりを周りの人に知られたくないために、できるだけどもらないようにする。どもらないようにする一番は、話さないことで、できるだけ話さなければならない場に出ない、話したいことでも、話さない。話さなければどもらないからです。

 僕は、できるだけ話さないようにしてきました。無口で、非社交的で、消極的でした。どうしても話さなければならない場面では、どもりそうだとからだが感じ取った時は、様々な工夫をしてきました。

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 「持ってきて下さい」の「も」が出ないと感じ取ったら、瞬間に「持参して下さい」と言う。一番古い記憶は、小学校入学前、おつかいを頼まれて、八百屋で「たまご4個下さい」がどうしても出ず、「鶏卵4個」と言い換えました。子どものころからよく本を読んでいたので、「鶏卵」ということばを知っていたのです。八百屋のおばさんにしては、小さな子どもが「鶏卵」と言うわけはないと思ったのか、結局、伝わりませんでした。
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 日本語は主語を入れなくても伝わる言語です。また、主語と述語を入れ替えても伝わります。「私はあなたが好きです」と言わなくても、「あなたが好きです」でも、「好き。あなたが」でも内容は伝わります。ことばが出ないとき、主語を入れたり省いたり、主語と述語を入れ替えたりしていました。 
 出やすいことばを前に入れ、勢いをつけて、どもりそうな語を一気に言う。
 い海箸个出るまで待って、間を置く

 これらのことを僕は、吃音を否定しなくなった今でも、無意識のうちに使っていると思います。無意識なので、自分でも分からないのですが、おそらくしていると思います。

 吃音を否定し、どもりたくないために、必死でこれらをしている人がいます。以前の藤岡さんは、これをしていたのではないでしょうか。これはつらいです。だから藤岡さんも、表面的にはどもっていなくても、つらくて苦しかったのです。
 固有名詞などは言い換えできません。言い換えできない、主語と述語を入れ替えられない、短い決まったあいさつでは、これらの工夫が使えません。そうすると、話せなくなります。どもりたくないと強く思えば、話せなくなってしまいます。

 藤岡さんや、僕がこれまでしてきたことを、「吃音をコントロールできる」と言ってしまうと、だったら、ずっとコントロールしていればいいということになります。アメリカ言語病理学の言う、吃音はコントロールできると同じだと誤解されてしまいます。僕たちがしてきたことは、どもりを否定し、どもらないように必死になって、ごまかしてきたのです。
 しかし、ごまかすと言ってしまうと、悪いことをしているようで身もふたもないので、工夫、サバイバルと、僕は言っていいと思いますが。
 ちょっとわかりにくいでしょうか。「吃音をコントロール」するとは、吃音そのものをコントロールすることで、どもりそうなことばを「「ゆっくり、そっと、やわらかく」、どもらないで発音することで、どもらなくさせることだとは、わかっていただけるでしょうか。

 ことばの言い換えなどとは、本質的にまったく別物だと理解したいと思います。良い機会なので、このことを明確に、みんなで区別ができればいいですね。文章で分かりにくければ、直接話して説明すれば分かってもらえると僕は思っているのですが。
 発表原稿では、吃音を、隠すことを身につけた小学校高学年、と書いています。さらに、その後、大阪吃音教室との出会いで、「どもるそのままの自分、どもる喜び、気持ちよさ」とされています。

 吃音をコントロールする術ではなく、また、どもらないように話す工夫でもない。「どもらないように話す工夫」と書いてしまうと、それができることになってしまいます。「どもりを隠し、どもる自分から逃げる工夫」が本当のところですが、今現在、前回書いた、違うことばへの言い換え、主語と述語の入れ替えなどは、僕も現在していることで、以前は、吃音を否定し、「どもりを隠し、どもる自分から逃げる工夫」だったものが、吃音を肯定している今は、そのとき身につけた工夫が、サバイバル術として生きていると言えるだろうと思います。
 
 現在、僕たちも使っているので、「どもりを隠し、どもる自分から逃げる工夫」と書くことに僕は躊躇したのですが、藤岡さんの小学生時代のそれは、「どもりを隠し、どもる自分から逃げる工夫」とした方がいいかもしれません。
 くどいようですが、吃音を否定していた時は、「どもりを隠し、どもる自分から逃げる工夫」が、今は、肯定しながらも、そのスキルが、相手にことばを届ける、話しかけるためのスキルとして役立っていると説明できると思います。
 今回の「吃音当事者研究」の7分という少ない時間では説明しきれませんが、今後のこととして、きちんと確認しておけばいいですね。

 藤岡
 「吃音コントロール」については、「スタートライン」の映画を観た後に伊藤さんたちと喫茶店で話し、わかりました。私は「コントロール」ということばを、何も考えずに使っていました。私たちが「サバイバル」と呼んでいる言い換えなどのスキルも「コントロール」と表現していました。「コントロール」はアメリカの言語病理学で「どもらないようにゆっくり言う」に代表される、どもることを徹底的に避けることに使う表現で、それを私が使ってしまうと、聞く人にとっては、その技法とごっちゃになってしまう危険性があるということを理解しました。まだ私の理解は不十分なところがあると思いますが…。

 日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2016/10/23