櫛谷さんの「いのちの吃音」の続きです。僕は、吃音に私が肯定されているとの櫛谷さんの考えに接し、はっとするとともに、大きくうなづきました。そして「基本設定の吃音」の文章を書きました。それは次回に紹介します。

思いはアタマの分泌物

 吃音はある。ひどく意識する私にとって、いよいよ吃音はのっぴきならない大きな存在としてある。しかしそれは縄がないのに自分で自分を縛っている世界なのだ。
 何年か前のNHKの連続ドラマで、戦争で片手を失くした漫画家が、知人の家から帰ろうと外へ出たら雨になるシーンがあった。そこで知人の奥さんが傘を差し出すが「いや、これくらい大丈夫です」といって、乗ってきた自転車で帰っていく。片手だから傘をさしては自転車に乗れない。しかし本人が手のないことをまったく何んとも思っていないので、接する人もそんなことは忘れて接している。

 私の友人もよく言葉がつっかえたり、出なかったりしているが、別に本人は何んとも思っていないので、話していて「この人は吃音者」などと思ったことはない。本人が「自分はどもりだ、恥ずかしい」と思えばこそ、まさに吃音と思うそのことによって、そこに厭うべき吃音世界が生まれ続ける。
 いや、そんなカラクリなど他人にいわれなくとも十分知っている。気にしないでいられたらどんなに楽かと、私自身が一番思っている。しかしどうしても気になるのだ。なかなか切り替えなどできない−−と思うかもしれない。
 それはまったくその通りだ。気にしまいと思えば思うほど、気になってしまう。眠ろう眠らなければと思えば思うほど、眠れなくなる。だから聖人ではないわれわれ凡人は、気になってもいいのではないだろうか。気になるままとにかく、そこで話すべきことを誠意を込めて話す。つっかえつっかえでいい、思いはどうあれとにかく、そこで話すべきこと、やるべきことをやる。気になる思いは勝手に気になるまま、日常生活を丁寧に一つ一つ生きるよう心がけ実践する。その実践があれば、思いはいろいろにありながらも、それなりに淡く消えていく。

 「思いはアタマの分泌物」と、師はよく言っておられた。自分の思いはそれまでこんな自分として生きてきたもろもろが、いま出逢っている縁と呼び合ってふっと起こっているだけで、常に流れている。執着してはいけない。吃音がひどく絶望的に思えるときもあるし、そんなでもないなと思うときもある。案外チャーミングな話し方だと思えるときが来るかもしれない。いまの思いだけが正しくて確たるもの、まして私の主人では決してない。どうにもならないとアタマで決め込むから、どうにもならなくなる。

 しかしいのちの事実は、どれだけ気になってどうにもならなくなっていようと、吃音それ自身は人の目などちっとも気にしないで堂々と吃音してる。人の脳ミソのほんのわずかな部分だけが、必死で気にしている。しかし気になるそのままで、すでに片付いている。なぜならすでに吃音は、何んともない顔をして堂々と吃音して、何んともないではないか。
 大切なのは吃音であろうとなかろうと、意識していようといまいと、もっと深い地盤から私は生きているということだ。伊藤さんも学芸会までは、そこから素直に生きていた。だから私を人とのカネアイだけの世界に投げ込むのではなく、自らのいのちの深さに立ち帰って生きる。ただ真っ直ぐ自分自身の生命力から生きる姿勢が大切だと思う。

 その生きる姿勢を伊藤さんは「吃音は生き方である」といわれるのだと思う。吃音を治してから本当の生き方ができるのではなく、吃音こそ光だ。吃音を光として生きていく生き方こそ、あらゆるものを自らのいのちとして出逢い、深めていく生き方ではないのか。その生き方のなかにはもはや吃音であるとか、ないとかは問題ではないだろう。
 生きる吃音はその人のいのちの真っ只中としてある。真っ只中としていま生きつつあるものが、どうして捕まえ規定して比べられるだろう。そのときもうそれはズレている。吃音を真っ直ぐ生きている本人の私が、どうして見る自分と見られる自分に分かれて劣っているなどと、ナマの自分の目を見るようなあり得ないことをいうだろう。「生きる」という、分別以前のたった一つのいのち現場にそんな隙間はない。ナマナマしい吃音のそこに、いま私のいのちが輝いているのではないだろうか。

 私は不思議を頂いている

 私のいのちって何だろう。この私のいのちは、私のいのちなのだろうか。
 私は両親から生まれた。しかし両親を選んだり、この世に生まれる権利を買って生まれてきたわけではない。私の思いなど届かない地盤から、無心で生まれてきたのだ。それは私だけでなく、両親もそのまた両親もそうだった。
 そうやって遡(さかのぼ)ってみると、私には地球上に初めて誕生した生命が、一度も途切れず連綿として受け継がれ生き継がれ、初めて私はいま生きている。何んといういのちの私の遥かさだろう。その思いの届かない地盤で何億年も受け継がれているいのちが、何でいま私が生きているたかが七、八十年の間だけ思い通りになるはずがあるだろうか。 いまも思い以上の地盤で心臓は動き、血液が流れ、刻々呼吸がなされている。いや俺は思い通りやっていると、思っている。そのいまの思いだって、思いを超えた力によって支えられて初めて成り立っているのだ。
 決して私は私の力で生きているのではない。太古の生命から、いま出逢っている人々、宇宙の隅々に支えられて初めて生きている。

 この不思議を見失うことで、あらゆる問題が起こる。あらゆる出来事が人間の狭い価値観のなかのいい・悪い、得だ・損だ、偉い・偉くないの世界だけになってしまう。吃音は恥ずかしいもの、治さなければいけないと。
 しかしこの不思議に立ち帰ったとき、あらゆるものの意味が変わる。日常のとるに足りない出来事−−私がいてあなたがいること、窓辺のカーテンを通して朝日が差し込んでくること、友達と喋り、時に笑い、花が咲き、風が吹く、私がそれを刻々感じている、それがかけがえのない尊いもののように光るのだ。生きるって何だろう。不思議がただにっこり自ら不思議している、そのことなのだろうか。
 不思議は不思議であるが故に、思議で分かったりつかんだりすることはできない。しかしすでにその真っ只中に誰でも彼でも生きていて、そこから落ちこぼれることも、それを追い求めることもできないのだから、安心して不思議を精一杯生きたらいい。人生は出来事のいい・悪いではなく、不思議のいのちを生きる深さにある。

 吃音に私が肯定されている



 それをこの身で実際にやるのが坐禅だ。思いで何かつかもうとせず、考えの先っぽを追いかけず、ただ骨組みと筋肉の身構えを頂いて不思議のなかに澄み浄くなる。自己の本当の中味を生きる。その行(ぎよう)を坐禅という。
 だから不思議といっても何かあやふやでつかみ処のない、たとえば超常現象とか霊感とかいった、あやしげなものなんかでは決してない。不思議ほど明らかなものはない。不思議ほど現実なものはない。だってそれはいまここ私がこうして生きている、そのことなのだから。不思議は必ず私のいまここにしかなく、いまここの具体的なあらゆるものは、不思議の現われ以外の何ものでもないからだ。
 治らないのに吃音は治すべきものだという。いまここの私を否定して、一体どこに私の人生があるだろう。私の人生はいつだってどこだって、いまここ私なのだ。それ以外生きようがないことだったら、なぜそのことで悩む必要があるだろう。そこから逃げようがないことだったら、苦しいまま真っ直ぐそれを生きる以外どんな道があるだろう。

 人はおのれの人生を生きていく上でさまざまな困難にぶつかる。それをどう受けとめて生きるか。逃げるか−しかし自分の人生から逃げ切れるのか。地獄をつとめあげるか−いやその地獄も自分のいのちではないのか。
 人は出逢った悲しみによって自分の人生をメチャクチャにすることもできるし、その悲しみによって人生をいっそう深く豊かなものにすることもできる。私の人生を生きるのは私以外にない。それを生きて向上するのも堕落するのも、この私にかかっている。たとえどこにあっても、切り拓いていけるのだ。
 伊藤さんの人生は吃音に守られ導かれた人生だったと思う。吃音は伊藤さんのいのちだ。吃音とともに豊かに生きるとは、吃音がすでに豊かなものとしてある。吃音によってどれだけ教えられ学んだことか。吃音は生きることを深く見つめさせ、考えさせてくれる。

 心臓の豊かさが私を生かしている。呼吸の豊かさが私を生かしている。吃音の豊かさのなかに私が生きている。吃音に私が肯定されている。
 だからどもってもいい。嫌だなと思っても、治したいと思ってもかまわない。たとえ思いはどうあっても、その思いのままで片付いている。どれだけ悩もうとその悩みのままで、どもっても何んともない世界をすでに頂いて生きている。その世界へ直入(じきにゆう)するのが坐禅だ。

 私はどもらない。しかし吃音の前に、誰でも同じ人として生きている。人として生きる限り、誰が悲しみや苦しみと無縁で生きていけるだろう。人はみなどこかで深い悲しみを抱いて、しかもなおよく生きようとしているのではないだろうか。その地盤で自分に語りかけるような気持ちで書いている。
 「坐禅とは自分が自分を自分することである」と、澤木興道(さわきこうどう)老師は言われた。それがそれ自身に落ちつくとき、そこに光が生まれる。青色には青い光が、赤色には赤い美しい光が生まれる。私が私に澄んでいくとき、なんともいえない透明な威儀(いいぎ)(いのちを生きる態度、振る舞い)が生まれる。吃音が吃音に落ちつくとき、吃音の喜びが生まれるのではないだろうか。
 観世音菩薩は「いま自身を現ずるを以て得度(とくど)すべき者には、即ち自身を現じて而(しか)も為(ため)に法を説く」という。吃音をもっていのちを輝かす者に、観世音菩薩はまさに吃音の身を現じて法を説き、いのちを輝かせるのだ。
 それは人の思いで「生きている」というものを超えたものが、まさに生きていることだ。そのいのちがいまここ私自身として生きている、この不思議。どこを探し求めてもそれ以上のところはないし、それ以下のところもない。だから安心してそのいのちの現場を大切に、精一杯生きる。いのちがいのちをただ生きる。悲しみがその底にあるなら、生きることはみな祈りになるだろう。
 「スタタリングナウ 癸横械狭罅廖。横娃隠看4月号

 次回はこの櫛谷さんの文章を受けて考えて書いたことを紹介します。

日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2016年9月28日