大阪の橋下知事が大阪の学力低下を嘆き、というよりも全国学力テストの成績の大阪の位置をあげたいと、くだらないいろんなことを画策しています。本当に大阪の学力の向上を願うなら、教育予算をとり、多くの教員を採用し、35人学級にまずすべきなのです。それには予算がともなうので、安易に東京で破綻した民間校長を教育行政にかかわらせ、夜スペシャルを東京の真似をして開こうとしています。また、競争をあおるために、各市町村に圧力をかけて全国テストの公表を迫っています。公表しない市は予算をつけないなどと、ヤクザのようなオドシをかけて、大阪の教育をぶっ壊そうとしています。日本の教育をだめにした、石原慎太郎東京都知事の真似ばかりして、とんでもない方向に行きそうです。
 こんな人間を当選させたことを、大阪府民として恥ずかしく、残念でなりません。私の周りには、橋下がいいという人などほとんどいないのですがね。
 なぜ、今、このようなことを私が言うのか?ある言語聴覚士の専門学校の講義を終えて、テスト重視が教育にあたえる影響を考えたからです。

 4日のある言語聴覚士の専門学校での4日間の講義が終わりました。専門学校は言語聴覚士の養成校ですから、当然国家試験に多くの人を合格させることを至上目的にしています。だから仕方がないと考えてはいるものの私には不本意な4日間でした。
 私はいくつもの専門学校で講義をしていますが、学生の評価は私に任されています。だから、講義の間の受け答えや、毎回の振り返り、宿題として出すレポート、講義が終わってから、課題を与えて出すレポートをもとにして評価をします。といっても、評価したくない私は通常の評価はしませんが。
 だから学生は、真剣に私の話を聞き、私が一日に何度も何度も感想や、意見やアイディアを求めることに真剣に向き合います。初日あまり意見を言えなかった人も、どんな意見や感想でも、決して否定することなく聞きますので、いやがっていた発表もだんだん好きになっていきます。こうして、学生とコミュニケーションを図りながら講義が進展した行きます。他の講義と違って、必死に考え、まとめ、発表する私の講義スタイルに、最終的にはほとんどの学生はよかったと言ってくれます。
 吃音について、教科書にはない実際の吃る子どもや、吃る人の体験、保護者の気持ちなどビデナや資料を使って紹介します。常に考えなくてはいけないハードな講義です。言語聴覚士としての臨床家の役割について多くの時間を使います。私と出会えて、よかった。吃音の症状だけにとらわれる臨床家にならずに澄んでよかったと、最終日にはほとんどの人が振り返ってくれます。もちろん、国家試験を軽視しているわけではなく、出題されるであろう重要な項目の説明や解説は欠かしません。6日間、4日間など講義の日数は違いますが、私としても、自分の考えてきた、体験したこと、大切なことはほぼ伝えられたと満足してきました。
 ところが今回は、最終日の1時間のテストだけで評価しなければなりません。私のスタイルではないと抵抗したのですが、この専門学校の方針で、全ての科目がテストだけで評価することになつてると言われれば、従わざるをえません。学生もテストのことを常に気にしながら講義を受けています。これまでになく、国家試験の解説や、テストに出そうなことを話さざるを得ませんでした。私が大切にしていること。読んでもらってレポートを書き、ディスカッションしたかったことは、テストの準備のために出来ませんでした。学生たちの中には、試験に直接関係のないことはあまり関心がなく、ここは出るよということには、真剣にメモをするという、授業態度の人がいて、私はついその学生に意識がいってしまい。やりにくさを感じました。
 これまで、本当に熱心に聞き、よく質問し、よく話し合ったこれまでの私の講義とは明らかに違いました。ですから、私には不満足でしたが、テストのためのということでしたら、この専門学校の期待に少しはこたえられたのではないかと思います。
 世間一般にはこのように講師が役に立つよい講師なのかもしれません。複雑な思いで4日間過ごしました。そして、今テストの採点を終えましたが、このような知識を知っていることが、臨床にどんな役にたつのか、むなしさをおぼえながら作業でした。これは、専門学校の責任ではなく、言語聴覚士の国家試験のあり方に極めて大きな問題があるのですが。
 テスト至上主義は、子どもの考える力、想像力、創造力、表現力など総合的な力を奪っていくのではないか。大阪の本当にいい教師はやる気をなくしていくのではないか。橋本が大阪の教育を壊してしまうのではないかと心配になりました。
 長く大学や専門学校で教員をしてきて、初めて抱いた感慨でした。
 それでも、縁あって私の吃音の講義を聞いた学生が、ひとりでも吃音についての正しい認識をもち、いい臨床家になってくれることを心から願っているのです。私にとって不本意な状態の中でも、私に吃音の講義をする機会が与えられたことに感謝しなければならないのだろうと思います。少しは私の思いは伝わったという手応えも感じたからです。もっと話を聞きたかったといいに来てくれた学生がいたことで、私は救われました。
               2009年1月188      伊藤伸二